トーラス学 概論

 

 

May the Torus be with you

 

(トーラスと共にあらんことを)


 

トーラス学

 

 

この世界形成の基本構造を司るトーラス精神(torus spirit)と

トーラス科学(torus science)の解明と統合を果たすことが可能な

「トーラス学」の確立を目指す。

 

 

 

トーラス学序論

 

 

この世界を司る基本構造がトーラスにあることは明らかである。

 

1・自然現象である回転、螺旋、渦、振動の運動エネルギー形態は、現代自然科学によって明らかにされつつあるが、その自然現象を生み出すための基本構造はトーラスにある。

 

2・現代物理学の到達点である量子論に於ける素粒子の振る舞いの解明による宇宙の創造原理はトーラスにある。

 

3・さらに現代生命科学が解き明かす生命誕生のプロセスはトーラスにある。

 

4・そして、現代社会がもつ環境危機に対する解決策は循環社会システムとしてのトーラスにある。

 

5・また現代哲学や宗教論である思想形成としてトーラスが重要である。

 

トーラス学は精神(torus spirit)と科学(torus science)の統合を果たし、トーラス学は人類の悲願であるフリーエネルギー社会へと導くのである。

 

トーラスがもつ無限のエネルギーに依って、この不幸なる現代社会全体の目覚める時が訪れようとしているのは確かだ。創世と生命誕生の「創造神」に対する理解はトーラスの解明から創造されることを知る。

 

 

 

トーラスエネルギー論

 

 

動きの種類

 

あらゆる自然の活発な動きは、三種類の基本的な動きー軌道的動き、回転的動き、循環的動きの一つ以上のものからなっている。このような動きが組み合わさると、自然が何かを組み立てたり、構造化したり、浄化したりするのに用いる、いわゆるらせんー渦巻き運動という複雑なパターンが生じる。

 

自然は脈動する―ヴィクトル・シャウベルガーの驚くべき洞察

 

軌道的動き

 

果てしない大宇宙空間の中で太陽系惑星が銀河の軌道上をらせん状に動いている。惑星は、静止した太陽の周りを回っているようなイメージをもってしまいがちだが、実際は、太陽自体も高速で動いている。太陽系惑星の公転軌道をアニメ化した映像。らせん状の激しい動きと美しさに衝撃を受ける。この宇宙発生原理と存在道理の動きを視覚化すると世界の観方が変わってくる。

 

回転的動き

 

回転する磁界(回転磁界)


1882年にテスラによって回転する磁界の原理が考案され、1883年に2相モータの設計がされました。下図では電源Aと位相が90度異なる電源Bによって作られる磁界の向きは回転することになります。このような磁界を回転磁界と呼びます。交流の場合にはこの回転磁界を使用した電動機や発電機が作られます。電動機や発電機で回転する部分のことを回転子といい、回転しない部分を固定子といいます。

回転磁界の中に回転可能な磁石を置けば、その磁石は磁界の回転に伴って回転する力を受けることになります。この方式では磁界の回転と磁石の回転速度は同じで、回転子は磁界の回転よりも位相の遅れがある状態で回転力が発生し、位相が進んでいる状態では発電機になります。このように磁界の回転数と回転体の回転数が同じであるものを同期機といい、電動機であれば、同期電動機といい、発電機であれば同期発電機といいます。回転磁界の中に回転可能な導体を置くと、胴体には電流が流れ、その電流は磁界と相互作用して、磁界が回転する方向に回転力を生じます。磁界の回転と導体の回転が同じになると回転力は発生せず、導体が磁界の回転数よりも速く回転すると発電機になります。この方式では磁界の回転数と導体の回転数とは異なります。このように磁界の回転数と回転子の回転数が同じでないものを非同期機といいます。電動機であれば、磁界の回転数よりも回転子の回転数が少なく非同期電動機ですが、一般に誘導電動機といいます。発電機の場合には磁界の回転数よりも回転子の回転数が多く、誘導発電機といいます。

 

この世界を形成する基本的動きである回転力は生命エネルギーの根源である。それは回転磁界の中にこの世界が存在していることによって明らかである。

 

Spin  (回転)

Spiral(螺旋)

Spirit (精神)

 

循環的動き

 

この地球上の全ての物質はガイヤの持つ循環的な磁界の中に存在が許されている。物質と精神も、この偉大な地球磁場によって相互作用し合い循環している。目に見える事象と目に見えないが感じ取れる事象が存在しているのは確かだ。夜空を見上げれば、肉眼では小さな星の光と何時も見える月がそこにある。しかしこの地球は目に見えない磁場を持ち、目に見えない太陽の脅威的な様々な波長の磁力線から守ってくれているのである。目に見える電磁波としての可視光線と目に見えずとも存在している不可視光線。一体だれが「目に見えるものしか信じない」と言ったのだろうか。ひとは誰でも目に見えない重力を感じ取ることができるだろう。この目に見えない重力が、地球上の全ての物を地球に存在させてくれているように、目に見えない循環領域とエネルギー力場の中にこそ真実が存在している。目に見える領域こそ不確かなのである。広大な目に見えない領域のなかに微かな目に見える領域があり、そんな偏狭な領域のなかで全てを判断することなど馬鹿げている。広大な目に見えない領域は、自らの広大な知性と思考が創り出す磁界とのエネルギーが及ぼす相互作用によって観ることが可能となる。

 

Cycle(循環)

Interaction(相互作用)

Force(力)

 

軌道的動き+回転的動き+循環的動き=らせんー渦巻き運動=トーラス

 

神秘は渦を巻いている

 

渦巻きの形が自然の働きと親密な関係を持っているのは、天文学・気象学・生物学などの分野によって裏付けられています。また、人間が作り上げてきた道具や機械の仕組み、装飾や建築物にも、螺旋形が重要な役割を果たしています。

 

「螺旋(らせん)とは何か。螺旋とは渦のことである。小さなものでは原子核の周囲を運動する電子の回転(スピン)、または田螺(タニシ)のような巻貝から、大きなものでは最大直径十六万光年にもおよぶ我々の属する銀河系のようなひとつの渦状星雲にいたるまで、あらゆるものが渦を巻いている」

 

 

ーこの世の全てはエネルギー体であり、らせんー渦巻き運動による

トーラスを形創るー

  

ネット検索すると多くの無名の人々が、この宇宙創造の原理としてのらせんー渦巻き運動に注目し研究している。当然この「トーラス学」研究は現代社会の主流学問ではないが創世の原理と法則の核心に迫っているのではないかと思う。トーラス体はダイナミックで構造的、形成的でさらに、効率的あることをまず知ろう。ならば現代文明が如何に非効率的構造であることが理解できる。何時かは尽きる地球資源を頼りにしている収奪と支配と利潤優先の経済社会から脱却し、異端視される「トーラスエネルギー」がエネルギー格差のない調和的社会形成のための基盤である「フリーエネルギー」にならなければならないだろう。

 

二種類のらせんー渦巻き運動

 

・軸運動→放射運動 

 

「爆発 explosion」

 

遠心性ー発散的、減速的、散逸的、構造弛緩的、分解的、破壊的、摩擦発生的 

 

・放射運動→軸運動

 

「内破 implosion」

 

求心性ー収束的、収縮的、結合的、創造的、統合的、形成的、摩擦減少的

 

「力はエネルギーが仕事をするときに用いるものであり、加速という状態として測定することができる。重要なのは二種類の加速を区別することである。一方は分解するもの、もう一方は結合させるものである。非建設的な力においては回転半径は拡大し、圧力と摩擦を増大させるタイプの加速を生じる(遠心的加速)。建設的な力においては、回転半径が減少するにつれ、吸引力を増し、摩擦を減少させるタイプの加速を生じる(求心的加速)。遠心的加速では、同じ速度を維持したり、さらに加速するのにいっそう多くの力が必要となる。 求心的加速では、速度とエネルギーはひとりでに加速する。ヴィクトルはこれを、あらゆる生命を生み出す建設的エネルギーであるー形成力(foramtive force)ーと呼んだ」

 

人間社会を形成するための基本政策はエネルギー政策である。如何にして生存基盤のエネルギーを獲得するかによって、社会が形づくられる。多くのエネルギーを持つ社会が発展し豊かになるという現実のために、人はより以上のエネルギーを求め続ける。その結果は、ガイヤからのエネルギー資源の飽くなき収奪を行ってきたことによる、地球資源の枯渇と環境破壊と生物破滅へと向かう人間社会が形成されてきた。

 

エネルギーとは

 

1. 仕事をすることのできる能力のこと。

  物体や系が持っている仕事をする能力の総称。

 

2. 1. の意味から転じて、物事をなしとげる気力・活力のこと。

  活動の源として体内に保持する力。

 

3. エネルギー資源のこと。

 

これまではエネルギーという語・概念は、物体が仕事をなし得る能力、を意味したが、その後、量子論により熱・光・電磁気もエネルギーとされるようになり、さらに質量までがエネルギーであるとし、この世界を形づくる全てがエネルギーの創り出す一形態であるとする理解に至っている。しかしこのエネルギー思想を単に物理学内に留めようとしている社会の実態もある。今だ「神」がこの世界を創ったと信じる思想があり、エネルギーが世界を創ったことを受け入れることできない体制が存在し、エネルギー社会の意味を単に資源確保の方法論に終始し、エネルギー資源の獲得競争に明け暮れている現状がある。ここに「エネルギーを制するものが社会を制する」という間違った思想により、エネルギー資源を支配の道具とし、エネルギー争奪戦争とエネルギー格差社会を生み出してきた。人類の目指すべき社会は、このようなエネルギー獲得の競争社会にあるべきではなく、エネルギーは全ての人類が共有する自由なる「形成力(foramtive force)」であるとしなければならない。そしてヴィクトルの言う「爆発 explosion」を主軸とする時代から「内破 implosion」という創造的エネルギー形態を理解し、活用する社会形成が必要である。

 

「我々は無限の空間をあまねく満たす渦の中にいる。その回転速度は想像を絶するものだ。我々を取り巻く全てのものが回転しており、運動している。空間の至る所にエネルギーが存在する。このエネルギーをもっと直接的に利用する方法があるに違いない。そうすれば、空間から光を引き出し、空間から電力を引き出し、汲めども尽きぬ貯蔵庫からあらゆる形態のエネルギーを引き出すことにより、人類は長足の進歩を遂げるだろう。その可能性を考えるだけで、我々の精神は大きく広がり、希望は強固になり、心は至上の喜びで満たされるだろう。」

 

ニコラ・テスラ、1891 年

 

この世界がトーラス体であり、そして生物としての人間もトーラス体であるならば、人間の存在意義は、全宇宙空間を形づくるトーラス体の一部分を担う構成要素にあることは明らかである。言いかえれば、人間の存在自体は、この世界を形づくるトーラス体の一部であり、トーラス体を構成するエネルギーの流れのなかの一要素だということである。世界を構成する物質としての生物である人間と、人間の精神がつくりだす社会そのものが、トーラス体のエネルギーであるとする意識を持つことで、この世界の観かたが変わってくる。あらゆる生命は動きのなかで存在している。そして自然界のエネルギーの流れが物質の形態を作り出し、その基本システムがトーラスである。トーラスは循環するこの世界の時空間の基本形であり、生物の「生と死」、物質の「創造と破壊」、エネルギーの「拡張と収縮」を司る原理と法則はトーラス構造の理解から生まれる。あらゆる生命は動きのなかで存在している。そして自然界のエネルギーの流れが物質の形態を作り出し、その基本システムがトーラスである。ニコラ・テスラが既に語っているが如く「我々を取り巻く全てのものが回転しており、運動している。空間の至る所にエネルギーが存在する」のである。地球のもつ回転磁界は重力を発生させ、地上での生物生存を許しているのである。それは目に見えずとも空間の至る所に電磁エネルギーが存在する証しである。現代文明は電磁波による電波、電気、光を利用してきたが、そのエネルギーがもつ無限の可能性を今だ有効活用できていない。世界を構成する物質としての生物である人間と、人間の精神がつくりだす社会そのものが、トーラス体のエネルギーであるとする意識を持つことで、この世界の観かたが変わってくる。「何故に人は存在しているのか?」の答えは明らかである。人間は宇宙から素粒子にいたるトーラス体のエネルギーの流れの中で一つの形態として創り出されたのであり、全宇宙の実体空間の中に身を置き、その一部として機能を果たすために存在しているのである。


トーラス学は精神(torus spirit)と科学(torus science)の統合を果たし、トーラス学は人類の悲願であるフリーエネルギー社会へと導くのである。

 

 

トーラス生命論

 

 

生命の誕生と死

 

人間社会を中心に観れば、人の生命の尊厳を規範としなければ社会は成立しない。命を軽視する人殺しは社会悪であり殺人罪として現代社会は殺人者を最高刑をもって罰する。しかし現代社会に於ける大量殺人行為である戦争や虐殺、殺人事件が世界各地で行われている様を観れば、生命を尊厳する社会規範が失われていることは確かである。生命の尊厳を規範とする理性に対して、人の持つ本能である支配欲、金銭欲である狂気が理性を超えれば人間社会は堕落し崩壊する。そして人類は今だ、究極の目的である恒久平和には程遠いし、平和を叫ぶこと自体に虚しさと欺瞞を感じる。人の持つ理性を信じるのかを問われれば、信用に値しないと答える以外にはない。人は狂気なる理性という仮面を纏い、生命のもつ神秘さと荘厳さに近づくことも許されない愚かなる存在であることに自覚さえしていないのである。しかし人の持つ理性や狂気に関係なく、生命の誕生と死滅は宇宙エネルギー構造体のなかでトーラスの如く循環し続けている。生命輪廻は宇宙創生の原理であり、人の生と死の限られた時空間は宇宙エネルギー体の中で存在し、共鳴共振している。ひとつの限りある生命エネルギーは広大な宇宙エネルギー体を構成する一部として存在し輪廻しているのである。

生命誕生システム

生命誕生から成長を経て死へ続く人生という名の道程である流転する生命エネルギーは、その存在自体に意味があることを知る。だが今だ高度なる生命誕生システムと生命循環システムによって支えられた世界が宇宙時空間に存在している理由の解明は果たせずにいる。知の次元レベルは、低次元から高次元の世界を窺い知ることは出来ないのであり、生命誕生の真の理解は現在の次元を超えた知的新人類の出現を待つしかないが、それでも悲しき先の見えない試行錯誤の中に高次元への道がある。全ての生命体が過酷な生存競争の試練の中で、生き残ることだけが課題ではなく、生命誕生の喜びと生命死滅の悲しみの狭間の中で、ひとつの生命が果たすべき使命の解明こそが、知性の究極の課題である。この世の全てがエネルギーであるならば生命エネルギーは、この世のエネルギーと一体であることが何故か理解されていない。この理解こそがトーラス生命論の核心である。そして生命誕生の理由は在るのではなく、その理由を探し出すことにある。回答が得られるかも解らない孤独なる探求の果てに今は理解しきれない答えが導き出される道程を歩むことこそが生命誕生の真相に、より近づくことが可能になると信じている。それはトーラスシステムによって凝縮されたエネルギーは物質として固定化され、精神を宿す生命体として成長する万物創生のシステムを理解することである。この万物創生のシステムと人類の造り出した全てのシステムと比較すると、人類のシステムなど陳腐であり、粗雑であり、未成熟である。生命について何も解っていないし、生命のもつ崇高さを理解していない。平和とか豊さとかの言葉に隠された欺瞞なる既存の支配システムからの自由なる解放思想が知的深化を生み出すだろうが、確実なのは今後100年の内に人類の70億人に死が訪れることである。生命の限られた時間の中で、人類の進化にとってはひとりの知性をも無駄には出来ない。

 

生命サイクルの潮流

 

人類が生まれる何十億年も前からこの地球上には多くの生命が誕生し、今もバランスを保ちながら果てしない生命サイクルの潮流が続いている。地球上に多くの生命を育むことによって生じる生命エネルギーの波動は、地球生命体の意識と化し、人の意識と同期しているのは確かであるが、その波動を捉えることは難しく方法さえも確立していない。現代科学は生命エネルギーがもつ波動の理解について大きな過ちを犯しているのかもしれない。それは生命エネルギーが持つ波動性の存在を非科学的として否定してきたのであり、現代に於いても生命に内在する精神性の解明はいまだ進んでいない。これは宗教の役割が大きいのだろう。宇宙創造と生命誕生の神秘と人類を含む全てを創造したとされる神の存在とが、論理矛盾をきたしていることに他ならない。今だ人は神の下僕であると信じられされている人は多く、支配の道具である経典や聖書が絶対視されている事実があり、神の名に於いて大量虐殺が行われているという狂気なる現実がある。更に教育の名に於いて生命が軽視され、経済の名に於いて生命の尊厳が汚され、国家の名に於いて生命が虐げられている。そして現代まで人類が作り上げてきた社会システムの多くが、最も大切である人の生命を脅かしているという愚かさを露呈しているのである。人類の生命潮流の行き着く先に、豊かな世界が在るとは限らない。このままでは何百何千年先のこの地球上に人類という種が存在していることも不確かである。そして人類の創り上げてきた文明によって人類が滅ぶという愚かなる狂気の時代を向かえるかも知れないのである。

 

生命循環の脆弱性

 

それぞれ独自の形態と機能を持つ地球上の多くの生命体である動植物によって生命循環が保たれているが、生態系の頂点であると自負してきた人類の生命サイクルも地球上の生命体である以上、生態系の相互作用の環境の中で生命サイクルが維持されている。地球の環境に適合し、生き抜くために進化を繰り返した中で生物の多様性が生み出され、この地球には多くの生命が溢れている。しかし絶妙なバランスを保って維持されてきた生命循環のシステムは繊細であり脆弱であることは確かであり、ひとつ生命エネルギーが持つエネルギーの解明は今だ成しえていない。動植物の様相を観れば、寿命まで生き残ること事態が非常に困難であり、そしてひとつの生命を維持するためには多くの生命体の死が必要である。地球上の多くの生命体は弱肉強食の世界で日々命を守るために生き長らえようとして他の生命を奪いながら生きているのである。この生と死の悲しき生命循環によって、生命体は果てしなき流れと渦のなかで種の保存と生物的進化を目指している。人の寿命はたかだか数十年であり、短くも儚いものではあるが、生命循環にとっては貴重な時間である。地球上の多くの生命体はその時空間のなかで生を全うし、死を向かえるという自然の摂理を受け入れている。しかし人類は自然の摂理に反し、戦争という人類同士の殺し合いによって不自然に多くの生命が断たれてきたし、いまも変わることなく殺し合いが繰り返される狂気の世界を演出している。そして人の生命は一発の銃弾でいともたやすく断たれるのである。この事象さえも多くの生命誕生と死が織りなす生命循環のシステムの一環であり、人智を超えた自然の摂理と宇宙創造の原理の基本であり、全てのエネルギーのベクトルの先に存在する高次元の世界へと向かうための試行錯誤の運動システムである。それは生が在るから死があり、死が在るから生があるという創造原理である生死観に行き着く。

 

生命エネルギー

 

全ての物質が素粒子エネルギーによって形作られているとしたならば、生命体の誕生と維持と死滅の過程はトーラスエネルギー理論である創造的運動システムの解明によって明らかにされる。トーラス渦巻き螺旋運動によってエネルギーが凝縮変位され、物質化していく過程で様々な形態をもつ生命体に昇華していく。そしてこの世界は様々な形態を持つ物質が誕生しそして生命に溢れている。だが生命の本質がエネルギーであることが理解できたとしても、そのエネルギーの発生原理を解き明かす術はない。人類が誕生する以前から、この地球上には生物が溢れていたのは確かであり、人類の誕生など地球生命体の一枝にしかすぎないし、現在の70億の人類の数も、地球生命体のほんの一部を担っているだけである。しかし何故に地球上に人類が存在しているかの理由を知りたいのである。物質である肉体に宿る精神領域としての意識が時空間を超えて、ひとつのエネルギーとして存在し、取り巻く宇宙エネルギーとの共鳴を意識できたときに、共振の渦巻き螺旋運動を呼び起こし、新たな意識の次元に昇華してゆくことが可能となり、生命エネルギーの針路が明らかになる。この宇宙を観れば、個々の星が引き付け合うことによって星系を形成し、さらに様々な形状を持つ星団へと発展し、この広大な宇宙が創造されているが如く、個々の生命エネルギーが集合し発展し進化していくことは確かである。そして宇宙を理解する人類の知性の使命は、人類の持つ小さな生命エネルギーが集合し高次元への進化を果たすことにある。生命エネルギーの進化はトーラスシステムの中にあり、収縮と拡散の運動エネルギーが創り出す循環構造の原理を全てのシステムに適用されるべきである。

 

 

トーラス時間論

 

 

時(とき)は等しく過ぎてゆく。誰もが時間を止めることも出来ない。そして時間は創造的トーラス時空間のなかで過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆく。

 

人類にとって、もともとは太陽や月の動きが時間そのものであった。ここにあるのは円環的な構造をもち、無限に反復する時間である。こうした円環的時間への信仰は、時間の周期的な全面的再生への願望を生み出している。世界と人は周期的に創造-存続-終末的破滅-創造…を繰り返す時空間に存在する。「アウグスティヌス(354 - 430)は時間を内面化して考えた。時間は心と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間3つに分けて考えるのが世の常だが、過去とは《すでにないもの》であり、未来とは《いまだないもの》である。ならば在ると言えるのは現在だけなのだろうか。過去や未来が在るとすれば、それは《過去についての現在》と《未来についての現在》が在るのである。過去についての現在とは《記憶》であり、未来についての現在とは《期待》、そして現在についての現在は《直観》だとアウグスティヌスは述べる。 時間とは、このような心の働きなのである。」「キリスト教の時間意識は、神を目指すひとつの方向に進む直線的な時間観であったので、《繰り返す時間》の観念は否定されてゆくことになり、終末に向かって進んでゆく時間の変化が意識され、人間は死ねば、煉獄、そして天国か地獄へ行き、最後の審判を待つしかない、とされることになった。」「商人たちが人々の時間意識に影響を及ぼしはじめる。商人たちは日数と費用の計算をするために、計測するものとして時間の観念を使いはじめた。それまで時計は日時計、水時計、砂時計など自然のリズムを意識するものだったのが、13、14世紀になると西欧各地で歯車時計が登場し、市庁舎の塔に据えられ、日々、人々の意識を支配してゆくことになった。「市民共有の大時計は、自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具」となった。」

 

「時間」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

 

時間観

 

時間は未来から過去へ流れているとする時間観

 

「自分に向かって未来がどんどんとやってきては過去へと消えてゆく感覚。(自分が過去から未来へと向かっているのではなく)未来のほうが自分に向かって流れてくる感覚である。そして現在起きたことがどんどん過去になり遠ざかってゆくという時間の流れの感覚である。こう考えれば、現在は過去の産物などではなく、未来の産物であり、しかも未来というのは固定されたものではなく、無限の可能性であり、しかもその未来は(過去の因果ではなく)さらに未来の因果によって決まる、ということになる」

 

過去から未来へと流れているとする時間観

 

「西欧人はキリスト教的な世界観・時間観にどっぷりと漬かって生きていることもあり、時間の流れに関しては固定観念を抱いていることが多い。たとえば“誰もが時間は一方向にしか流れないことに気づいている”などと、(学問的に見て明らかに不正確なことが)西欧では主張されることがある。」

 

時刻

 

時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)ということである。時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。 古くは日の動きで決めた。日の出という時刻があり、日没という時刻がある。また日が南中する時刻が正午(noon)とされた。 つまり、時刻は、自然をもとに決められていた。現在のように機械式の時計を基準に定められたりなどしていなかったのである。なお、一日のいつを一日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしている。またギリシャにある正教会などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が1日の始まりだとされている。今日でもそうだとされているのである。一日は夜の闇の中で始まり、やがて夜明けを迎え、昼を迎え、最後に一日の終わりである夕暮れを迎えるのである。同教会の修道士たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。一方で、日の出の瞬間を一日の始まりだと見なしている文化も多い。バビロニア人やエジプト人は日の出を一日の始まりの時刻だとしていた。西欧で中世以降に機械式の時計が登場してからは、人々は機械的意識にもひきずられるようになった。機械の針が零時を示した時が一日の始まりだという意識である。これは自然と切り離されてしまった時刻観である。現代の先進国の人々は自然から離れてしまった機械的時刻を意識してしまうためストレスを感じている。砂時計で砂の流れを利用して時間を計ることも行われるようになった。また砂時計は、現在というものが未来と過去の間にあることを象徴している。くびれた部分(現在)を見つめる。すると時間というのは上(未来)から流れてきて下(過去)へと流れてゆく流れ、と感じられることになる

 

「時間」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

 

トーラス的時間

 

時間さえも「経済的・社会的・政治的支配の道具」とされている現代において自己の時間観を確立することが必要だ。時間観が異なれば、全ての事象が異なって認識される。つまり現実的事象は自己認識によって決定されていることになる。さらに自らが認識する時間の流れの一瞬の現象を感じ取る感性の中で自己が形成されている。自己の周囲の時空間が現実としての認識ならば、他者の時空間と同一ではないことは確かである。自己認識できる時空間以外は全て幻想認識の時空間であるといえる。このような時間観をもてば全ての事象は自己認識のうえに成り立っていることが理解できる。現実的事象は自己認識による時(とき)と空間(ま)の流れによって成り立っているエネルギー体であるトーラス構造によって形作られている。時空間は過去も未来も無く、現在という一瞬の事象であり、その瞬間のなかに、自己の意思がもつエネルギーにより先の時空間が引き寄せられ、渦巻きとらせんを形成しながら、更なるトーラス構造を形づくり、徐々にエネルギーがトーラス体に蓄積され、その循環プロセスのなかで物質化された時間が創造されてゆくという時空間認識をトーラス的時間と呼ぶ。

 

創造的時間論

 

時(とき)の流れは過去、現在、未来という造られた固定観念の中にはなく、人の持つ意思というエネルギーが創り出す創造的運動システムの要素であり、創造エネルギーの流れと変位の単位を示している。未来と言うのは先にある時空間エネルギーであり、過去はそのエネルギーの軌跡であり、現在はエネルギーがトーラス構造体により物質化された事象の視覚化であると理解すれば、現在には無限の創造的エネルギーが満ちていることを知る。同機能を持つ人類という生物種は、万物創造のトーラスエネルギー体によって精巧に形作られた産物としての物質化であり、意思エネルギーをもつ創造体である。人の持つ意思エネルギーが磁界のごとく先にある時空間エネルギーを引き寄せているのであり、意思エネルギーのレベルによって、現象のレベルも異なってくる。そこにはまず巨大な宇宙的創造エネルギーが存在し、その大きな時空間の渦巻きとらせん形の中に人類の一人ひとりがもつ意思エネルギーレベルが存在していることを知らなければならない。例えば電磁誘導現象において、磁界と時間の変化が電気エネルギーを生み出すのであり、変化と動きがなければ「無」でしかない。電磁誘導現象での時(とき)の流れと動きこそが万物創造の原点であり「有」であることが理解できるのである。それは現代科学が生み出したものではなく、現代物理学は単にその構造を理解したにすぎない。時間とは動きの経過であり、そして渦巻きとらせん形によって形成されるトーラス構造体の創造的運動システムの基盤である。この理解によれば、人の一生を過去、現在、未来という時間経過に当てはめることなど必要ないのである。人類同士の対立を生む、宗教や哲学による時間論的人生観や世界観や運命論や進化論などは文明が造り出した産物であり、支配の構造の思想であることを知る。この世界はトーラス構造体の動きのエネルギーシステムによって創造されているのであり、創造主は自然界という時空間エネルギーのなかに存在している。

 

現実化のプロセス

 

人は先を読んで生きている。例えば将棋において数手先の差し手を想像し、何千手にも及ぶ差し手の中で最も有利な手を選択する。これは未来を想像し、選択し、現在を決定しているのであり、後は結果である。この全ての創造された動きは脳内の一瞬の動作と感性と思考のなかに存在し、想像のレベルが現実の勝敗を決している。このプロセスにおいてレベルの違いがあるが、全ての生物が持っている能力である。つまり時間とは、先を想像し選択し決定し行動して現実化する事象における時(とき)の連続した流れのプロセスを示している。このように個別の生物の想像と思考のエネルギーの蓄積が現実のトーラス時空間を形成し、この現実世界を形づくっているのである。ここには物質と精神の融合の自由世界が存在している。

 

物質と精神の融合時空間

 

世界を形づくる運動原理であるらせん運動において 、マクロには宇宙生成の姿・銀河の動きから始まり、ミクロにはDNAの右巻螺旋構造・電子の動き・神経繊維の伸長などがある。また、物質界のみならず精神世界もこの運動を基本としている。だからこそ、万象の共鳴震動という現象が、物心を通じて成立している。らせん運動の効果・特徴をまとめると

 

・高度なエネルギー増幅効果がある

  (例:電磁コイル・スパイラルアンテナ・波動転写装置など)

・創出の基本波長である

・螺旋は生命原理である

・思念はスパイラル状に伸長する

 

全ての現象がエネルギー体の運動現象であり、振動や波長や回転やらせんエネルギー波動現象は、振動が時間的変化にとどまらず空間的に伝わっていく現象であり、ある時空間上の自然現象の理解になくてはならない基礎概念へと関連している。それは共鳴震動という基本運動原理がもつ、物質と精神(思念)エネルギーは単位時間内と固有波長と揺らぎのなかで共鳴し増幅し発展している。物質と精神の相互作用のなかでしか時空間は存在していない。現代科学は物質と精神はそれぞれ別な存在として理解しているため、未だにこの物質と精神の相互作用と融合の基本原理を理解していない。

 

物質と精神の真理

 

人は生きようと思えば生き、死のうと思えば死す。全ての選択権は思うことにあり、思考のなかに存在している。物質としての肉体は精神である思考によって保持され、精神は肉体に宿っている。この相互作用の真理こそが物質と精神の基本原理である。例えば磁石は目に見えた物質として存在しているが、磁石が持つ磁界は目にすることができない。しかし磁界は目に見えなくても磁性体に磁力の作用を及ぼし引付け合う。つまり、この時(とき)と空間(ま)の流れによって成り立っている自然界においては、物質と精神が一体化した存在として相互作用し合うことによって形成されているのである。この真理によれば物質至上主義とか精神中心主義は独自に存在しえないことは明らかである。物質と精神の融合社会を築くには、高い知性を確立し、物質と精神の支配からの解放と自己が時空間の創造主であることに目覚める必要がある。「精神」とは、知性的存在者の認識能力、意志能力、判断能力の総称であり、理性、悟性、知性などと同義に用いられる。そして「精神」は「情報」によって形成される。その人の歴史の中で持ち得た「情報」の内容によって、「精神」は決定されている。マトリックスの世界では、機械が人間に「偽りの情報」を与えることによって、人間が生かされている。「偽りの情報」と「真実の情報」の違いを「理解」するには、人間の持つ「感性」に期待するしかない。

 

物質と精神の時空間

 

人は生きたいと思えば死に、死のうと思えば生きられる。人類の歴史は「勝者のみが生きられる」という人類同士での殺し合いの歴史観のなかで、物質を独占し、精神を支配する社会システムを造ってきたが、それさえも有り余るエネルギー資源が有ってのことであり、いつか資源が尽きるとき、そのシステムも崩壊する。文明は、勃興し、堕落し、死滅する。時間というものは、古代ギリシャ人達が論じていた通り、個人にとっても、国家にとっても、循環的だ。社会がより複雑になると、社会は必然的に一層不安定となる。社会は益々脆弱になる。そして、社会が崩壊し始めると、おびえて、混乱した国民は、現実から奇妙な逃避をして、自明の脆弱さや、迫り来る崩壊を認めることができなくなってしまう。グローバリゼーションというのは、金儲けの為に、国民を奴隷に、自然界を荒廃地に変える為に、過去のエリート達が使ってきた、古代イデオロギーの現代版表現なのだ。こうしたエリート連中にとって、神聖なものなど皆無なのだ。人類も自然界も、枯渇するか、崩壊するまで搾取されるのだ。エリートは、公益を守ろうという素振りさえ見せない。グローバリゼーションというのは、要するに、理性的思考の敗北であり、人道主義の死だ。我々は、過去の欠点から何とかまぬかれているだろうと考えている。我々は、先人たちよりもより賢明で、偉大だと確信している。我々は必ずや救済されるのだと、我々は素朴にも信じている。特に、事態が悪化する中で、こうした偽りの希望を提供する連中は、我々からの、お世辞や称賛を享受する。物質の氾濫と精神の混乱は、物質も精神も同じ時空間に存在するエネルギー体であるとの認識の欠如から生じている。この世界を形づくる物質と精神は、トーラス的時空間のなかで自己組織化システムとして循環構造を形成しているのであり、物質と精神の時空間の仕組みの理解のなかに人類が存在する真実の意味がある。あらゆる生命は動きのなかで存在している。そして自然界のエネルギーの流れが物質の形態を作り出し、その基本システムがトーラスである。トーラスは循環するこの世界の時空間の基本形であり、生物の「生と死」、物質の「創造と破壊」、エネルギーの「拡張と収縮」を司る原理と法則はトーラス構造の理解から生まれる。世界を構成する物質としての生物である人間と、人間の精神がつくりだす社会そのものが、トーラス体のエネルギーであるとする意識を持つことで、この世界の観かたが変わってくる。

 

知性あるシステム

 

人は目で物を見ているのではなく、脳が光エネルギーである電磁波を受信し、脳内で映像化しているのである。脳は電波を映像化するテレビとしての機能を持っているのである。それは生物起源として、始めから目に見えない電磁波を受信できる機能をもつ目と、電磁波から映像化し認識できる脳をもっている生物が誕生しているのである。ダーウィンは、複雑な目の構造が自然にできあがるという考えは合理的でないように思われると述べたが、それでも自説を放棄せず、目も生物は進化の中で獲得したという説を堅持し、アカデミックな学説として現代でもダーウィン進化論は人類史の重要な科学思想としている。一方日本ではあまり知られていないが、世界ではダーウィン進化論に対してインテリジェント・デザイン説が提起されている。

 

 

インテリジェント・デザイン (英: Intelligent Design) 説とは、知性ある何かによって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説。『宇宙自然界に起こっていることは機械的・非人称的な自然的要因だけではすべての説明はできず、そこには「デザイン」すなわち構想、意図、意志、目的といったものが働いていることを科学として認めよう』という理論・運動で、1990年代にアメリカの反進化論団体、一部の科学者などが提唱し始めたものである。

 

「インテリジェント・デザイン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

 

現代の量子学において光は光子(フォトン)であり素粒子の一つで、光を含む全ての電磁波の量子状態かつ電磁力のフォースキャリア(force carrier)である。電磁波は空間が振動して生じた連続性を持ったエネルギーの波動と、物質という原子や分子で構成された不連続な粒子(パーティクル)の集合物の間で生じているエネルギー波である。それは常識として目に見えているものが現実の物質の本質でなく、目に目えていないエネルギー体が物質の本質であると気づくことであり、エネルギー体の波動から形成されている時空間において、人類のもつ意思エネルギーがこの現実としている時空間を形成する創造エネルギーと相互干渉している。だからこそ世界は意志を持ったトーラスエネルギーの流れによって「デザイン」されているのである。

 

 

トーラス融合論

 

 

悲しいかな人間は物質領域を見ることができても、精神領域は見ることはできない。しかも物質領域の本質は素粒子のエネルギーの振舞いによるが、その素粒子を肉眼では確認することはできない。同様に精神領域の本質は個人の脳がもつ生体エネルギーであり見ることができない。そして本来、社会は物質領域と精神領域によって成立しているが、資本主義社会は目に見える物の売買でのみによって成り立っているために、根本的に社会としての限界を露呈している。さらに飽くなき利潤のために人のもつ精神を支配しようとする矛盾も抱えている。

 

スコヴォロダによれば、すべてのものは可視天性と不可視天性という2つ天性を有しているという。前者は人の目で見ることができるものの実存であるが、後者は人の目から隠されたものの本質である。その本質を把握できる人間は、知欲のある者、人情の厚い者、現世と実在にとらわれない者のみである。そのような人間は、ものの本質を把握した上で、初めてものを正確に理解できるという。誰でも目を閉じてみれば解ることだが、肉体の持つ五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)から解放された精神世界が暗闇の中に姿を現す。欲望と煩悩との狭間の中で揺れ動く自己意識が認識される。思考によって脳神経細胞(ニューロン)のネットワークを形成し理性的コントロール能力を深化しようとすることも人の持つ欲望である。

 

アブラハム・マズロー(1908-1970)は「欲求階層論」を唱えた。これは、人間は、ある欲求が満たされると、より高次の欲求を満たそうとする、とするものである。人間の欲求は、「生理的欲求」「安全への欲求」「社会的欲求」「自我欲求」「自己実現欲求」の、低次元から高次元までの、5つの階層をなしている、とし、低次元の欲求が満たされて初めて高次元の欲求へと移行する、とした。 また、生理的欲求や安全への欲求を「欠乏欲求」と呼び、自己実現を求める欲求は「成長欲求」と呼んだ。どの様に呼ぼうとしても欲は我欲であり、欲望によって自己と他者の精神を支配することなる。東洋思想の仏教では、欲そのものは人間に本能的に具わっているものとして、諸悪の根源とは捉えないが、無欲を善として推奨し、修行や諸活動を通じて無欲に近づくことを求めており、自制ではなく欲からの解放を求めている。原始仏教では、出家者は少欲知足(しょうよくちそく)といい、わずかな物で満足することを基本とした。南方に伝わった上座部仏教は、この少欲知足を基本とする。しかしどう見ても人類は支配欲によって殺し合い、殺りくを繰り返す基本構造を持つ文明を造り上げてきた。何故人類は過ちを繰り返しているのだろうか。間違った情報が人類にプログラムされているようだ。この社会の変革には、物質社会と精神社会の融合を果たす革新的なソフトウェアが必要だ。それは人の持つ知性が創り出す。ミーム学は人間社会について新しい理解をもたらす。

 

人の持つ知性は生きてきた証である。そして思考の根拠となる知性はミームのように精神領域のプログラムであり、生きることによって得てきた様々な情報を体系化し脳内で組織化され、映像化される。今、目に映る現在と言う時空間は、自己の脳内映像によって現実化されているのであり、思考が現実と一体化される。しかし、どの様な映像を観ているのかはDNAの遺伝子の如く、外部からは窺い知れないのである。知性が進化しているのか劣化しているのかは解らない。理解しようとすれば、ミームによる社会情報の拡大が個人の知性に収斂されてこそ意味を持つ。それは知性が操作された情報によって形成されている中で、真の知性は目に観ることのできない物質領域と精神領域の融合したトーラスの中心点に隠されている。その真の知性に触れるための唯一の方法は、世界を形づくるトーラスの中に自らが存在していることに目覚めることである。

 

何故人類は、渦巻き星雲を目にしたときに、宇宙の発生原理が渦巻きらせん運動の中にあることに気がつかなかったのだろうか疑問である。宇宙は「神」が創ったのではないことがハッキリ理解することができたのにである。そして人類は未だそれぞれの「創造神」のためとして、愚かな争いを繰り返している。

 

物体は素粒子の波動によって形づくられているが、その物体の一部分しか人は見ていないのだ。この世界を形づくる電磁エネルギー波のなかで、人が目にすることができる領域としての可視光線のほうが圧倒的に少ない。だからこそ人間はこれまで、この世の一部しか見ることができず、この時空間の成り立ちも一部しか理解できていなかったのだ。しかしハッブル宇宙望遠鏡で宇宙形成のダイナミックな渦巻き星雲を写真で見ることができた時、太陽も地球も人間も、この大宇宙空間の一部でしかないことが真実であることに気づくべきであった。そして今、膨大な大宇宙空間エネルギーが全ての時空間を形づくっていることに精神的に目覚めたのである。創造主はこの膨大な大宇宙空間エネルギーのことである。この無から有を生み出す膨大なエネルギーこそが創造主である。

 

人は生物体機能がもつ外部情報源である五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)に頼って日常生活を送っている。しかし誰でも既に気づいることではあるが、人は五感以上の感覚をもって生きているのは確かである。人の肉体から感じる情報など、この世界を形づくる膨大な情報量のほんの一部にすぎない。そして、この世界は三次元であるとするならば、ひとつ次元が違えば情報から得る様相が全く異なる。四、五・・十・・百・・次元と無限に次元は存在しているのであり、無限なる情報によって多次元の違う世界が形作られている。それは多くの様相が異なる銀河宇宙が存在していることでも理解可能である。この銀河の大宇宙空間と人のもつ小宇宙空間である世界が素粒子によって作られているならば、それは電磁波のもつ相互作用によって影響し合い、トーラス体の如く融合しているのである。

 

人は教育という名のもとに、現実の事象と精神的領域の統一性を果たすため、様々な細分化した学問分野を作り出してきた。しかしそれは、個々のもつ思考の範囲を限定し、閉鎖された社会を作ろうとする支配思想の歴史でもある。支配層が受けいれられる思想と受けいれられない思想を分別して、人を「教育」している社会構造が見えてくる。ときとして「真実の探求」は反社会的思想として敵視される。だからこそ「常識を信じるな!」が出発点である。人はマトリックスの世界観の如く、目に映る現実的事象は、この世界を形づくるほんの一部であり、一部分を理解しているにすぎない。現代科学は表層的な物理的現象の一部をみて、全てであるかの如く吹聴している「専門家」なる詐欺師的職業者を「権威者」として養成している社会構造の欺瞞に目覚める必要がある。我が思想形成のゼロポイントはここにある。ゼロから観れば自らの感性によってしかこの世界が理解できなくなる。全てはエネルギーであることが異端視される社会のなかで、まずこの世界形成の真実はトーラスエネルギー体にあることを理解しなければならない。

 

エネルギーの諸段階

 

物質的実体は何十億個もの原子からなっているが、それぞれの原子はさらに小さな素粒子からなり、その素粒子はエネルギーの渦なのだ。原子より小さな素粒子は、渦の中でたがいの周りを回転しながらより重いエネルギーをもつ粒子を形成し、だんだん密度を高めて速度を落とし、ついには目に見え、触れることすらできる存在となる。私たちが目にする物質的実体は、エネルギーが振動して物質状態になったり解消ししたりして、目に見える「残像」を作り上げた結果生じており、その周波数と密度のために物体は静止しているように見えているのである。無数の粒子がたえず加速、減速して私たちの目に物質として映る形をとり、個体としてそこにある錯覚を生み出しているのだ。あらゆる物質実体がつねに動いている原子や素粒子から成っていることを理解すれば、あらゆるものがエネルギーであるということが理解できるだろう。ヴィクトルは、現代の人間は物を見ることはあっても、本質を見ない表層的な生き物だと考えた。私たちの視覚は認識するのみに限定されており、深い考察とは関係ない。私たちは外見を全体と、結果を原因と取り違えてしまっているのだ。実際に目にしているものは発現したものの外側の殻であり、形式的エネルギーが遺していったものにすぎない。私たちには、生物を創ったエネルギーが見えないのである。

 

自然は脈動する ヴィクトル・シャウベルガーの驚くべき洞察 

 

人は宗教と言う名のもとに、現実と遊離した物語としての創造神を創り出し、権威としての宗教を信じさせ、人以上の存在である神に、国家支配体制の維持装置としての役割を与えてきた。自らの神のために自らの神を信じない人を殺しても厭わないという矛盾した狂信的宗教観をもって、人同士の殺りくと多くの争いを繰り返し、未だにどの神が正しいのかの決着さえ果たせずにいる。この世界を宗教で分断し、ガイヤを宗教圏で線引きすることで虚構の世界を作りだし、自然と対峙する未熟なる思想と社会を作り出してきた。それは「神を信じても救われない」のである。

 

量子論が生まれて間もないが、過去から受け継がれてきた真理なるものが変わらざるを得ないのだろう。量子論が明らかにした「全てがエネルギーである」を万物創造の真理としたならば、これまで人類が営々と築き上げてきた学問体系を根底から書き換える必要がある。それは、現代学問は哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などと細分化・分断化されているが、全ての学問を統合する最上位学問としての「エネルギー学」をまず最初に学ばなければならなくなるだろう。当然その前に今は無き「エネルギー学」を打ち立てなければならないが、何時かは人類の知力の進化の中で万物創造の真理である「エネルギー学」が確立されることを願い、そしてそれは物質と精神のトーラス融合論が基軸になると確信している。

 

「人は生きている」と言ってもおかしくないが「水は生きている」と言ったら多くの人はおかしいと思う。しかし人の60パーセントは水でできていて、血液の90パーセントは水分である。現代科学は水を化学式H2Oとしてしか教えていない。これが多くの現代人がもつ思考の限界を表している。人も水もエネルギー体であり、同じように素粒子の集まりであり、脈動し同じように振舞い、この世界に存在しているのである。だから真実は人と同じように「水は生きている」のであるとしなければおかしいのである。おかしという思想を植え付けた現代社会がおかしいのである。水は古くから人にとって最も必要であり、人の肉体の重要な構成要素である物質化した水を神性なものとして精神的に感じ取っていた。だからこそ水素と酸素との化合物であると知る以前から世界の構成元素として水を重要視し貴重なものとして、古き文化こそ物質と精神の融合した知性によって、水に対して神秘性と敬意と尊厳と深遠なる感性で接していた文化をもっていた。

 

私たちの地球は水の惑星である。世界の地表の70パーセントは水に覆われている。私たちの体の約60パーセントは水である。水はあらゆる生命にとって欠かすことのできないものだ。しかし、現在の科学は水の真の性質についてほとんど理解していない。人類は水に対し敬意を払わず、たいていは廃棄物や汚染物質を運ぶのに使っている。タービン、パイプ、直線化した川岸に流すことで、水の複雑な構造を破壊してしまっている。水を日用品のように扱っているのである。ヴィクトルは水を生きた有機体、「地球の血液」と呼び、それは血液、樹液、いわゆる水などのさまざまな姿をとる、あらゆる生命の基礎なのだと主張した。

 

自然は脈動する ヴィクトル・シャウベルガーの驚くべき洞察

 

水を単に資源として扱うことが、この文明の破綻をもたらす。現代社会は、この地球が長い年月をかけて培ってきたエネルギー源である石油、鉱物、生物、植物そして水資源を人類だけの近代化の名のもとに収奪し尽くそうとしている。人類の叡智である思想としての自然崇拝は今や異端視されるに及んでいる。

 

八百万の神

 

自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、欧米の辞書にはShintoとして紹介されている。日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(厠神 かわやがみ)、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから八百万の神と言われるようになったと考えられる。

 

自然崇拝

 

自然物・自然現象を対象とする崇拝、もしくはそれらを神格化する信仰の総称。「自然への崇拝」ではなく、「自然」という概念ができる以前の崇拝形態である。自然崇拝は世界各地に見られ、また各地の神話にも自然物・現象を神格化した神が登場することから、古くは普遍的であったと思われる。万物に宿る精霊を崇拝対象とするアニミズムとも関係が深く、その原初的な形とも捉えられる。しかし自然崇拝では精霊でなく自然物・現象そのものを崇拝対象とする(自然と超自然的存在を区別しない)場合も多く、またしばしば特定の自然物・現象だけを尊重する点で区別される。

 

対象としては、

・天空

・大地、山、海

・太陽、月、星(星辰崇拝)

・雷、雨、風などの気象

・樹木、森林

・動物(特に熊、狼などの猛獣)

・水、火、岩石

 

森羅万象

 

あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。なお、「宇宙」はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、および宇宙空間を指す。

 

 

禅宗(特には臨済宗)では肉体と精神とは同一のものと考え、区別をしない。肉体があるから精神もありうるのであり、精神があるというならばそこには発生原因として肉体がなければならない。そのような意味で、肉体がそのまま精神であり、精神は肉体である。もし死体を見て、肉体は滅んだが精神はどこかへ移動して不滅のまま残っていると考えるならば、これは大乗仏教ではない。霊魂の存在を認めると生と死に関する深い執着が発生するため、仏道成就を阻害するとされる。禅宗では、心というものは刻一刻と変化しており、これこそ我が心であるといえるような一定の形態を持たないと考える。したがってこの心は実は幻の心である。この点では肉体についても同様のことが言え、肉体だと思っているものは実は物質が縁によって和合して仮に人間のすがたが現れたものにすぎず、縁が滅ぶ時には元通りバラバラになるためまったく実体がない。したがって心身はもとより一つの幻である。幻だから、生きたり死んだりするものではない。生きたり死んだりしないから、常住不滅である。

 

「禅」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

 

 

一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこすとされている。しかし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素と定義する解釈もある。雲は大気の凝結として捉えられ、風は大気の流動であり、その同じ大気が呼吸されることで体内に充満し、循環して、身体を賦活する生命力として働く。つまり、ミクロコスモスである人間身体の呼吸とマクロコスモスである自然の気象との間に、大気を通じて、ダイナミックな流動性としての連続性と対応を見出し、そこに霊的で生命的な原理を見るというアイディアが、気という概念の原型なのである。気は、一方では霊的・生命的・動的な原理としての形而上的側面をもちながら、他方では、具体的で普遍的な素材(ヒュレー)的基体でありかつ普遍的なエーテル的媒質であるがゆえに、物質的な形而下的側面も持つという二重性を持つことになった。気は、物に宿り、それを動かすエネルギー的原理であると同時に、その物を構成し素材となっている普遍的物質でもある。従って、たとえば気一元論はかならずしも唯物論とはいえない 。

 

「気」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』

 

自らの肉体と精神を基準にして、目に見えない世界の動きを司るエネルギーを捉えるために様々な方法論が提示されてきた。しかし、この世界を司る原理を求めてきた人類思想は、未だに人類共通の普遍的原理を確立できず、混乱し、争いを続けている幼稚な初期段階であるが、この文明を支配している思想は根本的な間違いを犯している。それは多くの人類が「支配思想」にとり憑かれている思考形態から抜け出せないでいることに尽きる。自然環境の支配、他生物の支配、人の支配を果たすことで自己を実現しようとする思想が全人類に行き渡っている。支配は秩序とバランスを崩し破壊をもたらす。自然環境の破壊、他生物の絶滅、人の肉体と精神の破壊として、この文明は既に滅びに向かって進んでいるといえる。そして文明の滅びが近づけば近づくほど狂気の支配は強まることは確かである。だからこそ、この文明が終焉する時、次なる文明に向けてのパンセ(思考)を準備しているのである。荒れ狂う支配思想からの解放を望むなら、物質領域と精神領域の融合する時空間の中に、自らの自由思想を確立するという方法論しか残されていない。

 

パターンと形状

 

ルネッサンス以来、科学は、自然界が機能するやり方を説明するのに役立つ不変の法則を追い求めてきた。その科学が対象とする領域は物理的なものに限られているため、従来の科学は、宇宙の秩序が地球とその上に棲息する生物に微細なエネルギーレベルで影響を与えるという発想を切り捨てたが、そのことがヴィクトルをいらだたせた。彼は、古代の知恵と多くの共通点をもつ新しい科学によって、世界が宇宙の法則に従属し、二つの秩序のあいだに「調和」が生み出せることを実証したのである。

 

自然は脈動する ヴィクトル・シャウベルガーの驚くべき洞察

 

物質と精神のトーラス融合論の創造的確立の中に新たな次元を見つめる

 

 

トーラスデザインシステム論

 

 

この世の全てはデザインされている。それは自然物のデザイン、人工物のデザイン、精神のデザインであり、この世はデザインによって形づくられているのである。単に職業としてのデザイナーなどではなく、デザイナーは創造者であり、デザイナーは求道者であり、デザイナーは表現者であり、人は知性をもつデザイナーである。「デザインする」とは人生そのものであり、人は「デザインする」ことによって生きている。人はデザイナーであり、「デザインする」ことこそが人のもつ知性の存在理由である。デザインの本質とは思考を形にすることであり、その方法の習得には技術鍛練と表現能力が重要である。そこには精神世界と物質世界の一体化を可能にする自己形成システムの構築が必要である。単に機能的なとか実用的な物の形のデザインなのでなく、人の持つ心理的な感情を表現するデザインの奥深さが他者に感情を波及させる。感情とは喜怒哀楽愛憎によって表現されるが、それは複雑であり人それぞれであるが、社会形成の根底を成す構成要素である。人の感情表現として、楽しければ笑い顔になり、悲しければ泣き顔になる。しかし人は、楽しくなくても作り笑顔ができ、悲しくなくても嘘泣きができる。この感情がもつ二面性の奥深さこそが人たる所以である。人は顔の表情を何時もデザインして生きていかなければならない役者を演じている悲しき生き物である。

 

造られた笑顔をテレビ映像によって日夜見せられていると、現実の狂気が隠蔽される。悲惨な映像を解説する悲痛な表情の後に「次はスポーツです」と一瞬に笑顔に変わるアナウンサーは、疑問を持つことさえも許されていないのであろう。それは感情さえもコントロールされている狂気なる社会である。狂気に侵された多くの人は、他者の悲しみを自らの喜びとし、他者の喜びを妬み、蔑み、自らがもつ恨みの情念に支配されている精神構造から逃れ得る術を失っているのであり、自らの感情をデザインすることすら、不可能になっているのである。感情を強制する支配構造からは、新たな創造は生れてこない。何かを支配しようとすればするほど、事象は陳腐化される。解放される精神からデザインされる創造的な物質形態に意味がある。支配と解放が織りなす精神構造が文明の精神レベルを表現しているのであり、能面的な表情に潜む人のもつ情念のレベルは計り知れない。その情念を表現するデザインが進化を創り出す。人の心情の美しさと醜さは、人のもつ精神的な受動と他動の多面的表現であり、人の感情の流動性が世の流れを創り出す。この世は感情に支配されデザインされているのである。

 

豊さとか貧しさは物理的な現象の現れだけでなく、より以上に精神的な表れである。心の豊かさと貧しさの価値判断に於いて、人のもつ知性が深化される。デザインはこの知性の進化から創造される。醜き心が醜き人を創っている。醜き心が醜き社会を創っている。そして単純には人の美しき心などを信じることはできないのであり、美しさは醜さの裏返しである。醜さを否定するのではなく、自らの醜さを自覚する意識のなかに一瞬の美しさが垣間見えてくるのである。その美意識をデザインするには高度な空間認識と技術を必要とする。それは自らの知性を弛まなく磨きをかける鍛練なしには到達できない境地である。人は自らをデザインすることによって生きる価値を形に表現しようとする。観ることが出来ないが、確かに存在する知性の形態を追い求めているのであり、醜さと美しさの共存する内なる世界を如何に表現しデザインしたかが、ひとつの生命体の生きた証しなのである。人の生きている時間感覚はそれぞれであり、多くを求めれば短く、求めないのであれば長く感じる。そして人の一生はトーラスの如く流転し、変化し、形を変え、膨張し、収縮している。人も悠久の時間をもつ自然の一部であり、素粒子が集合し、長い時間を経て、ひとつの形態としてデザインされ物質化されているのである。

 

デザインには必ず何らかの意図と意志と目的と使命があるはずだ。その理解は果てしない探求の先にある知性の進化によって果たされる。自らのもつ知性は自らの感性のなかでしか理解しえないという世界観によって自らをデザインする術をシステム化する。人のもつ顔の表情が創り出す感情表現システムは優れて緻密である。喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、憎しみ、恐怖などの精神的な感情を、顔面を使って表現する。さらには人の知性レベルが無意識に表情として表現され、知性のレベルが顔に出るのである。だからこそ目は口ほどにものを言い、人の目を観て話をすることが大事だと言われている。このネット社会によって情報のスピード化を果たしたが、情報発信者の顔が見えなくなり、より情報が隠蔽され嘘が社会に蔓延されている。表情は人の非言語コミュニケーション手段のひとつと位置づけられが、無意識と意識的の両面の領域を持っている。そして無意識なる表情によって人の深層心理を読み取ることが可能であるとされる。他者の表情を観れば、その考えを知ることが可能と言われるが、そう単純ではないことは能面を観れば理解できる。無意識と意識的な表情の両面を表す能面の如く、人の表情に隠された感情を読み取ることこそが真実を知るコミュニケーションには重要なのである。感情をコントロールするための理性は、感性を鍛えるなかで醸成されるが、人が自由に生きるために大事な感情発現が、意図的に造られた情報化社会によって抑制され、支配され誘導されている。感情の支配からの解放に必要なことは、人によってデザインされた仮面に隠された真の感情や情念を、自らの感性によって、より深く相互理解することである。

 

人には生きている領域があり、地域があり、場所があり、自らの知り得る時空間的な範囲とレベルがある。観て知ることと情報として知ることには違いがあり、広く浅く知ることと、狭く深く知ることにも違いはある。自らにとっての真実は自らしか理解できない。そして情報化、グローバル化という造られた幻想によって世界的支配が強まっていると感じる自らの感性を磨き、自らが自らをより良くデザインしていくことが必要である。人の創り出したデザインと比べ自然界の創り出す風景、風物に優るデザインはないだろう。人は自らが自然の一部であることを自覚すれば、大自然との共鳴を果たすことが可能となる。覚醒した意識によってマクロコスモスとミクロコスモスとの織りなす世界の摂理が解き明かされる。自然界のデザインは、鳥は空を飛べるように、魚は水中を泳げるように、動物は大地を早く走れるように、植物は太陽光を有効利用する形態を創り出した。しかし人類のもつ体の形態は何を得るためにデザインされているのだろうか。

 

自然は多種多様性の形態と生命を生み出し、進化への可能性を求めている。自然界は多様な生命が引き継がれることに意味を求めているが、人間界は自己のもつ支配欲のために、他の生命を奪い合うことに意味を求め、破壊者として君臨している。進化する世界観を創造することが可能となるようにデザインされている人類に課せられた使命は、デザイナーとして覚醒し、新たな世界観を創造し進化することである。世界観をデザインしてこそデザイナーとしての創造主が誕生する。この世は自然なるものにデザインされ創られていて、そのデザイナーである創造主を神と呼ぶならば、この世は神によって創られたのだろう。そして文明とか文化と呼ばれるものは、神によって創られた人類によって創られている。鳥のように空を飛べる飛行機、魚のように水中を泳ぐ船、動物のように大地を走れる車、などの文明の利器を創ってきた人類は自然界を創った神と同様な力をもつ創造神なのであろうか。そして空を飛ぶ爆撃機、水上を進む戦艦、大地を走る戦車などの兵器によって人類同士の殺し合いを繰り返してきた人類、大気汚染、森林伐採、動物絶滅を繰り広げる人類は自然界で生まれた破壊神でもある。

 

万能の神は創造と破壊がもたらす世界の行き着く先を用意しているのだろうか。神の言う、極楽と地獄の世界観を信じるしかないのだろうか。信じる者は救われるとは、支配のための最強の教義である。支配者は国家を信じろ、宗教を信じろ、教育を信じろ、と言う。全ては自らの欲による支配のためであることを隠し、信じる者は全てから救われると嘘を付いているのである。共同幻想として存在する造られた神が支配するこの欺瞞なる世界のなかで、生きる術としての自らのデザイン力が描く世界観を得ることによって、この世の真実を明らかにすることが可能となる。人は何時も仮面を纏い生きている。本当の顔を観られることを恐れ、権威に溺れ、欲に塗れ、権力に束縛され、真実なる感情を隠し、そして思想は堕落する。人は隠し続けることによって何時しか真実さえも見失い、狂気のなかで生き続けようとする愚かなる存在である。自らの愚かさを知れば限界を理解し、新しい世界観をデザインし、次なる高次元を選択することが可能となる。

 

人の持つ秘めたる想像力によって構築される世界観を持つことが、人が人として生きている存在理由であり、自己意識によってデザインされた世界観は、善も悪もない唯一の自由なる自己表現である。善人の様な悪人と悪人の様な善人が共存する狂気なる世界のなかで、自らを偽っている仮面を脱ぎ棄て、自らが自らを信じるに値する存在になる以外に、この狂気から逃れる術は無い。自らのひとつの世界観として、万物創生の摂理であるトーラス構造と万物創生の理解であるインテリジェント・デザイン理論を解明するためのシステム構築を目指すトーラスデザインシステム論を確立するデザイナーとしての自らの使命を果たす。

 


トーラス幻想終末論

 

 

この現代社会の憎しみと悲しみの連鎖は人類が生存している限り永遠に続くのだろうか。繰り広げられる国家間、宗教間、人種間、身分間の飽くなき争いを観ていると人類誕生以降から、他者への残忍なる支配思想を本能として備え、生物界での熾烈な、食うか食われるかの生存本能と同質なる本能行動による社会形成がその本質なのだろう。それは憎しみと悲しみの狂気をもつ人類が創り上げてきた文明の真の姿である。飽くなき生存本能と欲望の前では人類に備わっている理性や知性など何の力にもなりえないし、全てが欺瞞と嘘と隠蔽に満ちている。だからと言って嘆くこともなかろう。この危機感の深化のなかに自らの進化を果たしていく道はいつ何時に於いても残されている。信念とか情念とかの他者が理解しきれない自らの言葉の重みを理解する自己意識がもつ想像力が現実の物質化を果たす。仮想現実の中にあって、信じられるものは自らの選択以外にはありえず、その選択が先の時空間を確定しているのである。何時かは同種間の殺し合いの末に現人類の種が断たれ、次なる新人類と呼べる新たな種が生れるのかは解らないが、人が持つ自己選択によって得られる仮想現実の幻想が生み出す悠久なる時空間の中に、進化した次なる高次元の新たな種が多様性と相互作用による創造原理によって誕生するのだろう。

 

どちらにしてもこの文明が何時かは終焉の時を迎えることは確かである。それは我々の文明の根底をなす大量生産,大量消費,大量廃棄の経済至上主義を変えることができないためである。地球誕生から長い年月をかけて蓄積されてきた地球資源である石炭や石油や鉱物を食いつぶす人類の行く末は決まっている。人類の持つ飽くなき欲望の末に、最後は少なくなったエネルギー資源の奪い合いで、人類同士が殺し合い、結局文明は崩壊し消滅していく。しかしガイア生命体である地球は、人類文明が行なった環境汚染から何万年、何千万年後には回復を果たし、本来の豊かな自然環境を取り戻すことだろう。それは何事もなかったようにであり、人類と共に地球が破滅し心中することなどあり得ず、そう思うこと自体が人類の驕りである。人類史など地球史から見ればほんの一瞬の時空間上の出来事であり、人類によって何をされようが気にも留めないだろう。ガイヤ生命体から見れば人類は放蕩息子であり、やりたい放題の我がまま息子のようである。しかし何時しかガイヤ生命体から受けた恩に目覚め、心からガイヤ生命体に感謝する人類が誕生していることに期待するだけである。人類の生命時間と地球の生命時間がもつ時空間の相対関係があまりにもかけ離れているために、相互理解出来ずにいる。地球が咳をしただけで人類は死の病に侵される。生命の誕生と死滅を繰り返す循環構造の生命体である人類は、地球物質循環構造の一部分を担っているだけである。それは素晴らしいことであり、誕生した生命そのものに意義がある。しかし人類は自己意識をもってしまったために、生命体がもつ本能としての生存競争が意識され、人類同士の殺し合いが繰り返される。それこそが人類文明の本質である。勝ち残った者が文明を造ってきたのであり、そこには善悪の評価もない。ライオンが羊を殺し食っても、そこに善悪の関係が存在しないようにである。人類全体に評価を求めても無理であり、それは結果を受け入れるしかない。結果である環境や状況変化を受け入れ順応していくことも人類文明の本質ではあるが、自己の目覚めによる選択は可能であることは確かであり、選択の方向によって結果も違ってくる。人類の生存理由は、どの様な言葉で言い表そうとしても、生命体の持つ種の保存への本能が行動規範でありそのために生きているだけである。それは生存競争に勝ち残るためだけの、結果として生命の維持活動にすぎないし、欲望としての快楽を求め生きているのである。現在の生き残りの人類は、カルマ(業)によって支配される悲しき運命を持って生まれる。そして幻想としての因果応報の宗教観が生命維持にとって必要であり、この理解こそが、今の文明が終焉する時に必要なパンセ(思考)であり「自己の目覚めによる選択」に進化を求める。

 

良いことがあれば悪いこともある。良い人もいれば悪い人もいる。外向きの人もいれば内向きの人もいる。好きな人もいれば嫌いな人もいる。正直者もいれば嘘ツキもいる。この多様性を持つ世の中で、画一と安定を求めれば精神の停滞を招き、変化を求めれば精神は躍動する。抑圧されれば解放を求めるのであり、この世は対現象によって成り立っている。右があれば左があり、上があれば下があり、分裂すれば集合し、生があれば死がある。この世の全ては物質と精神によって現実化されている。さらにこの世は目に見える世界と目に見えない世界があり、その境界は常時変動し変化している。物質領域と精神領域の狭間の中で仮想と現実の時空間が存在し、人は自らの世界観が形作る時空間の中で存在している。そして生々流転の人生が多様な世界観を形成する。多様な創造性を持つ人の世界観が同一であることは在り得ないが、支配はこの一人ひとりが持つ世界観にまで立ち入り、支配体制が持つ思想と異なれば、敵視し、対立と争いによって同一化へと強制するのである。国家による徹底した思想教育によって成し遂げられる支配体制への従順なる人々の育成は限界を来たしているのは確かだが、この支配幻想の呪縛から今だ逃れ得ていない。繰り返される支配と解放の争いは今だ支配勢力が優勢である。国家、人種、宗教の違いと領土、資源の奪い合いによって繰り返されている愚かな争いは、人類が形成してきた支配幻想から惹き起こされているのは確かだ。愚かなる者は自らの愚かさを理解することは出来ない。自らの愚かさを理解出来る者こそ賢者と言える。抑圧と束縛は可能性を消失させ、解放と自由は可能性を生成する。自らの自由なる想像力から生まれる新たな世界観の構築にこそ次なる可能性が秘められている。人は自らの持つ創造力によって構築される世界観を表現するために芸術なる表現手法を創り出してきた。そして空間芸術・時間芸術・総合芸術である文学、絵画、音楽、映画、建築などによって、自己が構築した世界観を様々な方法と技術で表現してきたのである。抑圧された世に於いて唯一、芸術こそが人の自由なる創造性が発揮できる表現分野であることは確かである。この日本国家の支配層である政治家、官僚、経済人、学者なる知識人などは、創造力をもつ芸術家に比べ創造力の次元が低いのは明らかであり、低次元からは高次元の世界観を理解できず、自らの支配にとって高次元の存在は不要であり、支配の破壊者であり、敵視し弾圧するのである。しかし誰もが高次元の創造力を持つことは可能であり、誰もがこの世の創造主になることができる。そして誰もが創造主を支配すること出来ず、創造主となれば全ての支配から解放されるのである。低次元の精神から高次元の精神へ昇華することによって可能な高次元の世界観による高次元の現実世界の構築こそ、狂気なる世界の中で生きる自らの果たすべき役割である。

 

-文明が終焉する時、必要なパンセ-

 

混沌の世の中で「国家像」を示すことが必要である。13年先の2025年の「日本国家」は、これまでの「社会システム」がそのまま延長できているとは思えない。「工業化社会」「消費社会」の行く末は「社会システムの疲弊と廃退」をもたらすことは確かだ。「経済の再生」を声高に叫んでも虚しいだけだ。これまで味わったことのない「社会の縮小」が進み、謳歌してきた「豊かさの幻想」は、知らずに「貧困の現実」に変わる社会が到来する。そのときに覚悟を決める「目覚める日本人」に期待はするが、それまでには「社会の混乱」状況は続くだろう。しかし「地球環境破壊」はより進行し、取り返しのつかない状況になることも予想される。一方で「人間社会の縮小」自体は悲しむべきことではない。永遠の「人間社会の拡大」こそ異様である。それは地球の資源、エネルギーにも限りがあるように「人類の成長」にも限界があることを知らなければならない時期にきているのだ。目指すのは「工業化社会」が生み出す「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」からの決別であり、「循環社会」の構築にある。今の「社会システム」の大変革が必要である。

 

-2025年への思い-

 

人間社会は「支配者」と「被支配者」を作り出す。もともと人間は発祥時から「共同体社会」を形成することによって、厳しい自然環境を生き抜いてきた。「共同体社会」は「リーダー」と「ルール」が必要であった。そして社会内に、「ルール」を「従わせる者」と「従う者」が生まれ、さらに必然的に「富める者」と「貧しき者」や「力ある者」と「力なき者」の「差別」が作り出されてきた。さらに「支配構造」は時代と共に進化し「肉体的支配」と「精神的支配」の構造が形成される。特に「精神的支配」は「思想支配」「情報支配」により、人間の「完全なる支配」を果たし、支配者は自己の「利益」のために、他者を「隷属」するようになった。これまでの人類史の文明社会は「支配構造」の歴史といえる。その究極の社会が「マトリックスの支配構造」である。

 

-マトリックスの世界と人生論-

 

「歴史から学べ」と言うが、人は過去から学ぶことはできない。歴史と言った時点で真実である現実的事象が隠蔽されることを知る。作られた過去の歴史観は抑圧的社会システムを生み出す装置と化す。真の歴史とは知性の伝承であり、それは個別的である。そして人類のみが優れた社会システムを持っているのではなく地球上の全ての生命体は種の生存維持のための優れた社会システムを持っている。生命体の生存本能は遺伝子情報の中に組み込まれ伝承されているのである。しかし人の知性は生命誕生後から形創られるのであり、同時に自己が認識される。それは生命の誕生と共に生まれる自我の誕生であり、物質の肉体と精神の知性が現象として生成される。超古代遺跡から知るべきことは問いかけであり、答えは自らの知性に宿る。知性は理解であり認識であり感性である。理解なくては知性は深化しない。人として知性の深化を希求するならば認識を広めなければならない。そして自らの感性を鍛える中に真の知性がある。真の知性は時空間を超えるのである。知性にとって言語は優れたコミュニケーションツールではあるが自由精神抑圧の武器にもなる。知性は言語以上の総合体であり長い時間の中で形成されると共に、一瞬の時間の中に於いても形成されることを知る。知性の閃きは一瞬の時空間次元の中に出現する。古代インド哲学によると宇宙の根元をブラフマン(brahman)と呼び、それに対して人間に内在する原理をアートマン(atman)と名づけ、その二者が一体化した状態を求めることとなった超古代人の持つ知性を言語や文献のみから知ることはできない。まして言語によるギリシャ文明を発祥とする近代哲学などから超古代人のもつ優れた知性を根本的には理解できない。何故ならギリシャ以前の文明はギリシャ以後の文明よりも劣っているという定説が前提であるからであり、始めから前提が真実でないために結果も真実に辿り着けないのである。人の持つ知性のレベルが全ての認識のレベルになる。自己の認識レベルと他者の認識レベルに違いがある以上、この現実認識に差異が生じるのは当然であり現実は人それぞれの知性の中に存在する。そして知性は人の流転の中でどの様にも形成される。本来、自由なる知性は全ての束縛から解放されなくてはならないが、人は物質としての肉体を持ち、生物としての束縛から解放されることはできない。肉体が滅びれば精神も消滅する。人は物質と精神の狭間の中で挌闘し、自らが生きようとするならば他者を束縛する必要性に縛られる。それが社会構造を形成してきた理由だろう。自由と抑圧の過程が歴史と呼ばれる。よって言語として語られる歴史は如何様にも形成される理由である。超古代知性説は、勃興し、堕落し、死滅する社会循環構造の一断面を知的情報として得ることにある。そして超古代文明は確かに存在していたのである。

 

-超古代知性説-

 

悲しいかなヴィクトル・シャウベルガーの優れた主張はこの社会の主流とはなりえない。何故ならば、利益追求の資本主義社会は決して彼の思想と世界観を受け入れられないのである。それは受け入れることによって根本的に資本主義の在り様を変えてしまうためである。「大量生産・大量消費・大量廃棄」のシステムで成り立っている現代社会と破壊を生み出す現代の科学技術文明にとって、ヴィクトル・シャウベルガーの存在は「脅威」であり、既得権社会の「敵」である。彼の主張は徹底して弾圧され、そして隠蔽される。金儲けにしか興味のない人種にとって、ヴィクトル・シャウベルガーのもつ思想とは無縁であり興味を示さないだろう。多くの人は「カネとモノ」にしか価値を見出そうとはせず、地球環境の置かれている破滅的事象を「エコ商品」の販売促進に利用しようとする志向だけであり、利潤を生まない探求や行動には一切興味を示そうとしない社会である。しかし逆説的に言えば、この社会の主流に成り得ないヴィクトル・シャウベルガーが一生を捧げたエコ・テクノロジー(自然と調和する技術)を実践すれば、この破滅に向けて突き進んでいる社会を変えることが可能かもしれないという期待感がある。

 

-ヴィクトル・シャウベルガーから学ぶ-

 

地球上では、太陽エネルギーをエネルギー源として、大気や水が絶え間なく循環している。こうした循環で熱や物質が移動することにより、1つのまとまった「システム」として地球環境のバランスが保たれている。地球上のあらゆる生命体は、ガイヤ生命体(地球)と共にバランスを保ちながら生きていると言える。それは地球の成り立ちと、生物としての人間の「人体器官と機能」を見ると、まさに「生態系」として地球環境に適合するために、長い時を経て「進化」を繰り返してきたのは明らかだ。完璧とも言える「循環システム」をもつ人体の仕組が、ガイヤ生命体(地球)と共に生きてきた「進化過程」を物語っている。しかし一方で人類は「工業化社会」という「生産・消費システム」をつくり出してきた。その社会がもつシステムの本質は、地球が長い年月をかけて蓄積した「化石燃料エネルギー」と地球上の資源を使って、人類だけのシステム(文明)のために「大量生産・大量消費・大量廃棄」を行うことにある。この、「限りなく人間の欲望を掻き立てる」中でしか成立できない経済システムによって、人間が作る非循環型のエネルギーや物質の量が地球上に形成されている自然の循環量に影響するレベルに近づき、人類の生存基盤に関わりかねない危機的状態に至っている。それは、1つのまとまった「システム」としての地球環境がもつ「バランス」が崩れ去ろうとしているのであり、人類が「豊かさ」を求めてきた「工業化社会」は、今は人類の「危機」を招いているのである。人類は「大いなる過ち」を犯してしまったのだろうか。人類の科学技術の進歩によって解決が可能なのだろうか。「真実」が見えにくい社会である。『死と滅亡のパンセ(思考)』のなかで辺見庸が言う「世界は良くなりながら、全く同時に、より酷く悪くなっている。富みつつより貧しく、自由でより不自由で、限りなく荒んだ世界が今である」「これからこの国に展開するであろう悲劇が、先の敗戦時に散見された奈落よりも甚大かつ無限の連続性をおびている公算が大であるにも関わらず、全的滅亡に備える心の構えも言葉も、殆ど持ち合わせないのは、けだし幸せであり、同時に絶望的に不幸なのである」の認識は鋭く正しい。この「危機感」から逃れることはできない。問題解決 への道筋はどこにあるのか。ガイヤ生命体(地球)と共に築いてきた「バランス」を取り戻すことが必要である。少し前までは人類は「循環社会」の中で生きてきたのではないか。そして『北の国から』の倉本 聰が言う「人間が本来持っているはずの体の中にあるエネルギー。そのエネルギーの消費を抑えるということである。そのエネルギーの能力に応じて、急ぐことを避け、身の丈に合わせた人間生活を身分相応になし遂げることが、本来のつつましい暮らしではなかったか。」「一番必要になってくるのは、あの、”黒板五郎の生き方”ではないかという気がします。つまり、モノとかカネとか、そういったものに頼らない、自然からいただいて質素に暮らすという旧来の日本の生活を取り戻すことが今一番望まれているのではないかなという風に思います。」しかし環境問題も「環境ビジネス化」してしまう経済社会の中で、真の危機が見えてこない。情報の全てが「コマーシャル化」され、「自然エネルギー」さえも「商品化」される。数値化された「経済指標」と「生産性」の中では「環境問題」は解決されるどころか、増すます悪化していく。「エコ」の名のもとに進められている「環境問題対策」が、企業の利益追求の「エコビジネス」「エコ減税」で本当に「環境問題」を解決できるのかは疑わしい。たとえば「太陽光発電」は「売電」で利益を得ようとする企業による「電力関連事業」によってしか進められていない現実は「自然エネルギー革命」とは言い難い。単に「太陽光発電機器の産業廃棄物」を作っているだけである。本来の「自然エネルギー活用」には程遠い。自然の環境悪化が招く「悲惨な現実的な将来」と、工業化による「豊かな未来への幻想」との「いたちごっこ」を続けている経済社会の行く末が悲しい。そして「経済界」という「修羅の世界」を生み出した人類は、際限のない「エネルギー消費」の果ての「社会崩壊」に向かっているようである。(修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。)経済至上主義の中でしか、国家の行く末を示すことができずに、「モノとカネ」を奪い合う更なる競争社会へと突き進んでいるようだ。地球資源には限りがあり、エネルギー資源が尽きれば「社会」は終末を迎える。資源とエネルギー無きところには「工業化社会」の未来はありえないが、これまでのように「豊かな未来幻想」を振りまいて、消費のみに依存してきた経済社会が「地球資源の枯渇」と同時に訪れる「社会の経済的破綻」が目前に迫る「真実」を前にして、恐れる「経済界」でも、国民にこのまま目を背けさせる「情報隠蔽政策」を取り続けることもできない。地球環境悪化の「真実」を知れば、工業化社会のもつ成長至上主義の前提である「浪費社会」から、循環型の「脱浪費社会」が求められていることが理解できる。だが「脱浪費社会」へ向かうには、人としての生き方に対する「覚悟」が必要だ。自然エネルギーとの共生可能な循環社会へ向けての、一つの「結論」はモノとかカネとか、そういったものに頼らない「自然からいただいて質素に暮らす」という人間の「本来の生活」と「慎ましい幸福感」を得る社会に戻るしかないのではないか。そのために「覚悟」することが出発点だと思う。

 

-人体と地球と循環社会の考察-

 

人が 生きる上で最も必要なものはエネルギーである。そして、エネルギーが尽きれば国家も社会も人も衰退する。これまでの人類の歴史は「エネルギーの奪い合いの社会」でもあった。国家間の「戦争」はエネルギー源としての「領土」「資源」「人力」を他国から得る目的によって繰り返しおこなわれてきたし、現在においても世界中で「奪い合い」が繰り広げられている。地球上の全ての人類が「無尽蔵のエネルギー源」を平等に得ることが可能になれば、争いのない「理想社会」を築くことができる。この社会形成こそフリーエネルギー開発の第三の目的である。永続的な未来社会を築くためには、人類はフリーエネルギーを得なくてはならない。その実現は近い将来に可能なのだろうか。フリーエネルギーは夢物語なのだろうか。その目的の達成には「科学力」の発展は欠かせないが、それだけで「理想社会」を築くことができないのは確かである。フリーエネルギーの持つ目的としての「自由」と「理想」と「夢」の追求によって 「真のフリーエネルギー」が生まれてこなくてはならない。そして生物としての生命活動に必要である「真のフリーエネルギー」を如何にして得るのかは、それを実現可能にする「自由なる思想 」「自由なる精神 」「自由なる発想 」「自由なる生き方 」をもつ「自由人」のなかから創造されてくることが必要である。何故なら、エネルギーを独占すれば絶大な「権力」と「利益」を得ることになる。石油会社、電力会社、ガス会社はエネルギー独占による大いなる利潤を上げることが可能となる。それは世界一の会社は石油販売会社であることからも理解できる。しかし本来、石油も石炭もガスも「地球」が生み出した資源であり、全人類のものである。誰かが独占するものではないはずだ。富める者も貧しい者も地球の資源は「平等」に分配され「自由」に利用できなくてはならない。人類の未来ためのエネルギーを考えることができるのは、全ての権威と我欲からの束縛から解き放たれた「自由人」にしかできない。

 

-フリーエネルギーへの考察-

 


トーラス神聖幾何学論

 

 

TOUCH / タッチというアメリカドラマのビデオの中で主人公の少年が示す謎の数字が、時空を超えて世界を繋いでいるという。過去の知性高き歴史上の人々は、プラトンをはじめ、言葉や文字ではなく幾何学と数字で世界を知ろうとしていたことは確かだろう。現代は図形や数字のもつ神秘性を無視しているが、真理の探究はこの世界が形作られる図形や数字の神秘性に行き着くのだろうと思う。例えば縄文人が描いた渦巻きへの知性を知ることは今こそ必要である。この世の全てがエネルギー体であるならば人の創造力がもつエネルギーによって物質エネルギーが現実化されるというトーラス理論が重要だ。この世の全ての出来事が偶然のようであって偶然ではなかったとしたら、なにがそうさせているのだろうか。これまでに多くの人々が、その原理の真実を求めてきた。それは現代に於いても、神の存在を理由にする者、因果応報に理由を求める者、そして神聖数字の神秘性を解読しようとする者たちがいる。この世を司る真理の探求は、人の持つ知性の至高である。

 

人の動きは目に見えない赤い糸で結ばれているという。そして人の目に見えない繋がりと動きのなかでこの世は形作られ、世の秩序は相互作用のなかで保たれている。それはある人にとって正しいことが、ある人にとっては悪いことになる二面性共存の世界である。この世は相対する二極の事象によって存在しているのである。正と悪、生と死、男と女・・楽しみがあれば同時に苦しみもある世界である。正しい世界の裏には悪い世界があり、天国もあれば地獄もあり、豊かであって貧しさも共存している。頭の良い人もいれば悪い人もいる。正直な人だけではなく嘘つきな人もいる。そしてそれぞれが意味を持って結びつき、繋がり合ってこの世に存在している。相対する二極の繋がりは現代科学の量子力学による、この世の光の解明から理解できる。「光は粒子でもあり波でもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子というものである」とされ、光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ。光は粒子であって波でもあるという二極の同時性であることを証明しているのである。それによって、この世に物質を実在化させている光を含む電磁エネルギーは〈粒子性〉と〈波動性〉の二極の同時性をもつエネルギー体であることが理解できる。さらに正のエネルギーと負のエネルギーの共存する時空間エネルギーによって、この世界は構成されている。全ての物質と精神の領域は正のエネルギーと負のエネルギーを持ち、繋がりと動きによる相互作用によって存在している。未来は現在に存在する万物の意思エネルギーによって確定され、時空間エネルギーが現在に未来を引き寄せている。森羅万象全てがエネルギー体であり、未来と現在の繋がりと動きによって、物質と精神が相互に織りなす時空間エネルギーのなかで世界が創造されていく。この時空間の構造が意図する仕組みは神聖幾何学が創り出す図形に表現されている。それを読み解く知性が求められているのである。その至高な知性を獲得しなければ、この世界は混沌なるものとしてしか理解できない。

 

偶然と必然が織りなす狭間の中に存在する現実世界の行方を理解する知性の中に真実が観えてくる。知性が創り出す仮想現実は言語では表現しきれない図形としての神聖幾何学模様が創造される。それは現在のエネルギーが未来を創り出しているエネルギーに相互作用し変換する構造を示している。物体を原子レベルで解明するならば原子構造と電磁運動エネルギーが全ての物質形態を決定している。この世界のミクロとマクロの繋がりと動きの構造解析は人の持つ知性の中でしか理解することができない。理解する知性と理解しようとしない知性によって、この世の観えかたが異なる。それは未来を必然と観るか、偶然と観えるのか違いである。

 

現実という現在は、人それぞれによって観え方が違うのであり、現在は天国でもあり地獄でもあるだろう。つまり現実とは現在空間に仮想現実が無限に存在している世界であり、現実とはその仮想空間の一つの自己選択である。その仮想現実の配列を神聖幾何学が示している。この宇宙空間は無限の多様性の繋がりの中で形成されていることを知れば、同様に現実の物質と精神が創り出す世界は、無限の多様なる形態を生み出していることが理解できる。そして多様性と画一性の相対する二極の事象が世界の秩序を保っている。

 

一方で自然界は人の意識に関係なく存在している。人類が滅亡したとしても、この世界を形作るマクロの宇宙とミクロの原子はトーラスにより永続的に調和を保って存在していることだろう。如何に人類が強力な装置を造って地球自体を破壊できたとしても、この世の膨大な時空間エネルギーを消滅させることはできない。この世はカオスとコスモスの狭間の中で生み出されるエネルギー生命体であり、高次元意識による選択を繰り返すエネルギー連続体である。ここでいう時空間エネルギーやエネルギー生命体やエネルギー連続体の実像を、人類が造った言葉や文字では明らかにできない。だからこそ万物創世の仕組みを読み解く手段として、至高な知性が神聖幾何学を創り出した。トーラス理論と神聖幾何学論の融合を果たすパンセ(思考)のなかに、次の世界が観えてくる。

 

人が持つ肉体と精神の生体エネルギーは、弱く儚いものである。ひとつの生命誕生から死への道程は宇宙時間軸のなかにあって、あまりにも短い。その短き生と死を抱える人類が造った文明とか文化も、その人類がもつ弱さゆえに自然界のなかにあって、脆弱である。人は必ず訪れる死への恐怖感のなかで狂気し、何時も不安定な感情と考えで、生きながらえようとする欲望のみが思考を支配する。そして全てを支配しようとする欲望の中から人類は、社会システムを生み出し、さらにそのシステム構築のために人は多くの時間を費やしてきた。しかしそのシステムは脆弱な肉体と精神をもつ人が造り上げたものである以上、いつの時代にあっても不完全なシステムであるといえる。一方自然界は完璧ともいえる循環システムをもっている。自然界は人の生体エネルギーを組み込みながら完璧なトーラス循環システムを創り上げているのである。

 

地球上の基本なるシステムはガイヤが享受する膨大な太陽エネルギーによって支えられている。太陽エネルギーが消滅すればガイヤ上の生物は全て死に絶え、唯の無機質の物体に還る。だからこそ古代の人類が太陽を神として崇めていたのは当然であった。現代に於いて、太陽への神秘性を源とする世界観や宗教観は無残にも権力者の支配システムとして変容させられ、今では太陽は単に恒星としてしか認識しようとしていない。そして太陽信仰の名残として「元旦初日の出」をイベントとしているのみである。現代文明は太陽活動の存在の上に成り立っている危ういシステムであり、人類が造り出した全ての社会システムや構造物は、いつの時代にあっても危うさと不安定さを抱えている。人類のシステムはとても刹那的であり脆弱であり、この現代文明は先の観えない「砂上の楼閣」であって、破滅への恐怖心が生み出す狂気の文明といえる。よく観れば、この時代の様相は人殺しの道具をもった猿が、恐怖心のために辺り構わず凶器を振り回している狂気渦巻く地獄絵図のようである。

 

広大な宇宙の中で、この世界が位置するマクロとミクロの新しい認識を得ているにもかかわらず、未だ現代文明を支えている社会システムの思想は何千年も前から変わっていないことは理解できない。旧態依然の宗教観を基にした国家間の争いなど無益であり、古き支配思想が根底にある政治、経済システムは混乱を極めている。新たな世界観を打ち立てられずに、望んで人類自らが破滅への道を突き進んでいるようである。狂気が支配し混迷する現代に、これまでとは全く異なる新たな世界観が必要であることは確かである。無限の広さをもつ宇宙空間の中で、ちっぽけな地球上の生物として誕生した人類ではあるが、そのエネルギーは無限の宇宙エネルギーと同期することによって新たなエネルギーと成り得るだろう。この同期する方法と思想はトーラス学の探求にある。

 

地球上の人類を含む生物を誕生させたものを「神」と呼ぶならば、それは宇宙空間エネルギー体のことだろう。既成の支配者が造った宗教による偶像化した人間や神話での創造主ではないはずだ。万物創世のシステムの摂理を解き明かす鍵は、「聖書」や「聖典」で語られる文字や言葉のなかにはなく、神聖幾何学のなかの図形が示すシステムのなかに隠されている。そして人の持つ知性のみが「神」へ近づく閉ざされた扉を開け放つエネルギーをもっている。その扉はマトリックスで映像化されたネオが開けた「光り輝く扉」の如く、自らの選択の先に新しい未来へと続くことが可能となる扉である。支配は洗脳と抑圧のシステムにあり、自由は自らの持つ知性の解放と選択のなかにある。そして「神」である宇宙空間エネルギー体との共振と同期を自らが果たすことにより、この世に生まれた限りあるひとつの生命エネルギーの存在意義を自覚することができるのだろう。

 

 

トーラス相互作用論

 

 

スタートレックの世界観

 

22世紀から24世紀の地球人は銀河系内のほぼ四分の一の領域に進出しており、様々な異星人と交流しながら、残りの領域の探索を進めている。地球からは貧困や戦争などが根絶されており、見た目や無知から来る偏見、差別も存在しない、ある意味で理想的な世界と化している。貨幣経済はなくなり、人間は富や欲望ではなく人間性の向上を目指して働いている。地球は150個ほどの星系とともに惑星連邦という組織を形成しており、宇宙艦隊を編成して銀河系の探査や学術調査、外交、治安維持等の任務にあてている。

 

2001年宇宙の旅の世界観

 

木星の衛星軌道上で巨大なモノリスと遭遇、スターゲイトを通じて、人類を超越した存在・スターチャイルドへと進化を遂げる。

 

”科学知識が進歩するにつれ、遅かれ早かれ生物は、自然が与えたもうた肉体という住家から逃れでるだろう。ひよわで、病気や事故に絶えず付きまとわれ、ついには避けられない死へと導く肉体など無いほうが良い。自然の肉体が擦り切れたら――いやそれどころか、擦り切れないうちに――金属やプラスチックの部品と取替え、そうして不死を勝ち取るのだ。しかし脳は有機組織の名残として、しばらくは留まることになるかもしれない。機械の四肢を操り、あるいは電子の五感――盲目的な進化では到底得られない鋭い微妙な感覚――を使って宇宙の観察を続けるだろう。地球ですらその方向に何歩か進み始めているのだ。長生きできないと宣告された何百万もの人が、人工の手足、人工肝臓、人口肺、人工心臓のおかげで、いま幸福で活動的な暮らしをしている。この方向に行きつく先は一つしかない。――たとえそれが常軌を逸したものであろうと。最後には脳さえ消えて行くだろう。意識の着床する場として脳は必須のものではない。そのことは電子知性の発達が証明している。精神と機械の対立は、やがて完全な共生という永遠の妥協で終わるかもしれない…。だがそれが終局だろうか?(中略)ロボット身体も血と身体と同様に単なる踏み石であって、やがて人々が精霊と呼んだものに至るかもしれない。そして、そのまた向こうに何かあるとすれば、その名は神のほかにあるまい。”

 

ヴィマナ

 

ヴィマナ "vimana" とは、古代インド最古の古典「リグ・ヴェーダ」、叙事詩「ラーマーヤナ」、「マハーバーラタ」に登場する飛行船で様々な種類あり、多くは叙事詩に登場する英雄たちによって戦争などに使用されていたとされる。大気圏内はもちろん、大気圏外への航行も可能でヴィマナの能力としては、レーダー探知、ジグザグ飛行、翼の展開と収縮、敵機内透視、煙幕、カモフラージュ、太陽光線利用等が可能であり、ヴィマナはその用途によって三角形デルタ翼型、円盤型、など数十種類があったといわれている。古代に宇宙間を飛行できる宇宙船が存在していたのか。想像の産物であったのかは解らないが、宇宙人の存在を信じている人々がいることは確かだ。

 

未知との遭遇

 

ETやUFOの存在を認めることに何か不都合があるのだろうか。科学的と非科学的を分けて認識するだけの知性を今だに人類は持ち合わせていない。例えば宇宙人の存在を認めてしまえば、人類にとって全く新しい技術を目のあたりにすることができ、これまでの人類の社会体制が大きく変わってしまうだろう。しかし変化を恐れる人と変化を求める人がいることは確かである。だが宇宙人と地球人という存在認識になれば、地球人としての一体感が得られ、広大な宇宙空間から見れば小さな地球上での国家間や人類間の争いが、無意味なことになるのではないかという世界観を得ることができる。

 

反重力推進機関(電磁流体力学を応用した米軍軍用機)

 

UFOやETを信じる人と信じない人がいるが、それは神を信じる人と信じない人がいるのと同様に人それぞれである。信じる人が無理に信じない人を信じさせようとしても無意味である。信じない人が無理に信じる人を信じさせないようにしようとしても、やはり無意味であることを知らなければならない。それは信仰の自由として保障されているが如く、何人も冒すことのできない人の持つ自由思想と自由意思である。信じる人と信じない人がなにも争うことや批判し合うこともないのだが、現状は今だに人類の知性レベルは低次元にあり、隠蔽と差別と弾圧と殺し合いを繰り返していることは確かである。何故に人同士が認め合い、互いに尊重し合うことができないのか疑問である。高次元なる知性レベルの獲得こそが求められているのだろう。

 

ニュルンベルク上空

 

人それぞれが持つ時空間認識は異なっている。この世界を知るためには、まずその多元性を理解することが必要であり、観えるものも感じるものも全てが固有で個別なものであると知るべきだ。自己の思考と他者の思考は、見え方と感じ方がそれぞれ異なるために同一などありえない。この世界は人それぞれの多元時空間の集合体なのであり、何故に自らの考え方を他者に強制しようとするのか理解できない。ましてや専門家や学者なる人が発する定説などまるで信用できない。それは全ての常識を疑え!ということであり、洗脳と支配の社会構造からの解放は自己の知性の解放から始まる。洗脳の常識より、解放と自由な狂気を選択する。

  

マトリックス

 

全ての物質は固有の振動数を持ち、それぞれの物質間は振動による相互作用と共鳴による運動を繰り返すことにより存在し進化する。人も同じである。例えば映画マトリックスで描いている救世主の能力は、仮想現実であるマトリックス社会の情報を分解し、自分の望むとおりに書き換える事で自分の意識が届く範囲に対してマトリックスを操作する事であり、エージェントがマトリックスを支配できるなら、アノマリー(異常情報体)となったネオをみれば、マトリックスからの支配から解放され自由に意思を持つ異常情報の中にこそ、次への進化が可能となることを知る。


デューン/砂の惑星

 

デューンで表現される異常な精神世界の中にこそ、解放された真実を見抜く高次なる知性が宿っていることを知る。それは常識とか異常とか呼ばれる精神世界を形作るエネルギーが分裂と結合を繰り返す渦の中で同一化され、進化した知性へと昇華されていくのである。正常と狂気が共存する精神世界の中に存在している時空間エネルギーが持っている固有振動が拡大していき、その全てが共鳴する物理現象によって、仮想現実だったエネルギー体が実体現実へと物質化される。精神世界と物質世界が共存している宇宙時空間エネルギーシステムも、この共鳴現象の理解から解明される。

 

スター・ウォーズ 

 

「フォース」の概念については、カルロス・カスタネダの書から影響を受けたという。フォース(Force)とはアメリカ映画「スター・ウォーズ・シリーズ」に登場する架空のエネルギー帯を指す。それは生命体から無機質まで全てのものを包んで満たしており、未来を予知する力、他人の心を操る力、触れずに物を動かす力などのジェダイやシスの超常的な能力の源となっている。現代量子学が明らかにした、全てがエネルギー体であるとの理解により、現実の精神エネルギーは「プラスとマイナス」や「正義と悪」や「神と悪魔」などの二面性をもつエネルギー体であり、「光と闇」のフォースがこの時空間には混在していることを知る。その対極のエネルギー間の果てしない相互作用のなかで物質化された現実世界が形作られている。今のこの狂気の現実を観れば、フォースの暗黒面(ダークサイド)が支配しているかのような世界であり、それがフォースがもつ精神エネルギーが造り出す実体現実であるといえる。

 

ブレードランナー

 

現実社会の延長線としての仮想現実で描かれる未来は、決して明るく輝かしいものではないだろう。何時になるかは解らないが、次なる文明の前には必ず崩壊する文明が訪れる。そして今がその時代であるのかもしれない。これまでも大量絶滅を繰り返してきた地球上の生物圏に於ける歴史的必然から、現人類も逃れることは出来ないであろう。崩壊が目前に迫る時に何が起こるのかは、動物の生存本能から生じる行動から想像できる。地球上の生物は、特定の生物種が増えすぎれば、次は必ず減る方向に働くという自然の摂理がある。人類も決して例外ではない。そして自己防衛本能としての狂気が支配するのは必然であり、狂気は精神の支配構造を形成することを理解しなければならない。精神支配からの解放思想は、望むべき確固たる仮想現実を打ち立てる実体現実の中にしか存在しないのである。

 

ブレインストーム

 

神が支配する狂気の世界、経済が支配する狂気の世界、国家が支配する狂気の世界、そして偽りの知性が支配する狂気の世界が繰り拡げられている。人は限られた生と死の時空間の狭間に存在する狂気が支配する世界の中で、果たすべき使命があるのかも疑わしいが、支配からの解放を実現する自己認識の確立に向けて、限られた時空間エネルギーを活用しなければならない。しかし人は肉体の器の中に精神が宿っているという認識から乖離し、何時しか肉体の快楽である煩悩に惑わされ、物質主義に支配されるようになっている。精神の快楽としての知性の向上よりも肉体の快楽を優先することによって、人は堕落し精神は欲望という狂気によって支配される。そして飽くなき欲望の果ての物質文明に、終焉の時が迫っている。その危機感の中で、内なる世界と外の世界を隔てる境界線を見極めれば、永遠なる時空間に存在している仮想と実体の全体像が観えてくるだろう。脳内での精神エネルギーの昇華はトーラスによって具現化される。仮想現実と実体現実が生み出す時空間エネルギーが、トーラス構造の中での相互作用によって新たな進化を呼び覚ます。

 

勝手創千界への

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2013年

6月

09日

勝手創千界から世界へ

この世界が持つ多くの問題への解決は待っていては果たせない

より良き社会を目指して我が「勝手自由なる提案」を創り上げていく

そして「勝手創千界」の描く世界から解決に向けての一歩を踏み出す

10 コメント

2013年

1月

01日

勝手にエネルギー論を構築する

人類の行く末は「エネルギー」を如何に獲得していくかである。

日本の社会も経済も「エネルギー問題」の解決抜きには語れない。

6 コメント

2012年

10月

02日

新しいエネルギー開発に向けて

「水危機」と「エネルギー危機」が目前に迫っている。この二つの「危機」だけでも「人類の生存基盤」の危機である。 一刻も早く、地球と人類にとって安全・安心な「自然エネルギー」「再生可能エネルギー」の開発が求められている。

10年、100年先の「危機管理」として、今から行動しなければ遅いことは明白だ。

「消費社会」から「循環社会」「持続可能社会」「自然共生社会」「エネルギー自立社会」へ向けての「意識改革」と「構造改革」が重要である。

7 コメント

2012年

7月

08日

新しい日本改造に向けて

国の言う「国民のための判断」が本当でないことが明らかにされているいま

国民の持つ価値観として、何が大事で何が大事でないかという判断や、ものごとの優先順位づけ、ものごとの重み付けの体系の価値判断から、3.11震災を契機にした「新しい価値観」と「国民全体の幸福度」についての「提言」が、いまこそ日本に必要である。

10 コメント

2012年

6月

04日

勝手に発想法を研究する

差し迫る「少子高齢化の縮小社会への突入」「産業の空洞化」「エネルギー問題」「雇用問題」「財政問題」等々・・・日本社会が抱える問題は多岐に渡るが、政治や行政や官僚に「問題解決能力」の欠如が著しい。

さらに日本の技術を支える産業界や学界の「研究開発機関」においても「劣化」が進んでいる。

今こそ「フロンティア精神」と「新しい発想」が連動して「革新的なイノベーション技術」を生み出していくことが必要だ。

6 コメント

2012年

5月

01日

自然エネルギーと共に生きる

日本の自立と未来を切り開くためには、日本の国土に適合した再生可能エネルギーの社会が必要であり、最先端の日本技術を結集して「世界に誇れる日本」を創っていかなければならない。

15 コメント

2012年

4月

07日

勝手創千界から「尊敬される日本」へ

まず、現状のまま進行した100年後の日本の未来を想定し、その想定社会状況から、今必要な「方策」を考えてゆく視点が必要ではないかと思っています。新しい視点が必要です。

「勝手創千界」による「勝手な発想」が「脳内停止」状態の人々に「インパクト」を与えなくてはいけません。

13 コメント

2012年

3月

11日

3.11震災から海上都市計画へ

3.11震災を契機として、日本という国家のもつ様々な問題点が明らかにされ、新しい国家像が求められている。たぶんこのままでは、さらに日本の解体状況は進んでいくだろう。ラブーン海上都市計画がひとつの方向性を提示できればと思う。

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2012年

2月

19日

勝手に復興計画 in 石巻を提案

3.11震災からの新しきまちづくりとして「勝手に復興計画 in 石巻」を発進いたします。

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2011年

12月

31日

ホームページ開設

3.11震災以降、如何にすれば「津波につよいまち」が可能なのか?考えてきました。

その「ひとつの答え」を提示できればと思います。実現に向けて多くの人の意見を求めています。

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