葛飾北斎から日本を学ぶ

 

葛飾北斎はこれまでの日本の歴史上の人物のなかで、最も「天才」であった。200年前の日本を「天才の視点」では、どのように見えていたのか。日本の自然の美しさを知ることができる。

 

 

葛飾北斎の世界

 

  http://www.muian.com/muian08/08fugaku.html

 

為一期(錦絵の時代 18201833  6174歳)

 

葛飾北斎は、幕末に江戸で活躍した浮世絵師の一人。富士山の連作「富嶽三十六景」をはじめ

 

とする風景版画が著名な版画家である。また、その絵手本「北斎漫画」も、西欧の印象派の芸

 

術家たちに大きな影響を与えたと云われる。

 

 

富嶽三十六景

 

「波」を知る

 

神奈川沖浪裏
神奈川沖浪裏

 

「風」を知る

 

駿州江尻
駿州江尻

 

「海」を知る

 

東海道江尻田子浦略図
東海道江尻田子浦略図

 

「海辺」を知る

 

相州江の島
相州江の島

 

「島」を知る

 

武陽佃島
武陽佃島

 

「海洋」を知る

 

上総の海路
上総の海路

 

2.人物像

 

http://www.muian.com/muian08/muian08.htm#1

 

(1) 「富嶽百景」(75才時刊行)の自跋に以下の文章がある。

 

“己六才より物の形状を写の癖ありて五十才の頃よりしばしば画図を顕すといえども七十才前に描くところは実に取るに足るものなし。七十三才にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり。故に八十六才にしてはますます進み、九十才にして尚その奥意を極め、百才にして正に神妙ならんか。百有十才にしては一点一格にして生けるが如くならん。願わくは長寿の君子、余が言の妄ならざるを見たもふべし。”

 

北斎の作画に対する精神を現わす欠くことのできない重要な一文である。また、嘉永二年4月18日90歳で息をひきとるが、その死の直前の様子が以下のように記されている。

 

“翁死に臨み大息し、天我をして十年の命を長がらわしめば、といい、暫くして更に言いて曰く、天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す。”

 

ちなみに辞世の句は

 

「人魂でゆく気散じや夏の原」である。

 

(2)

下の左図は83歳の時の飾り気のない好々爺ぶりを描く自画像、

右図は死後に渓斎英泉が描いた北斎像である。

 

   

 

実際は、両図を足して二で割ったあたりが実像に近いのだろう。

(3) 北斎は生涯で一度だけ49歳の時新宅を構えるが、一年程で借家住いにかえり、生涯で長屋などの借家に93回転居したと記されている。家には茶を入れる土瓶と茶碗が二、三、あるのみで、食事は近所の家に頼んだり、出前を取ったりで、皿や椀などの食器すら満足に備えていなかった。 身なりにも構わず、粗末な木綿の着物を着たきり雀だったと云う。 
そのような簡素な暮らし向きでありながら、老年の北斎はいつも困窮していた。 放蕩者の孫に苦しめられ、借金取りに追い捲られていたらしい。葛飾応為「吉原夜景図」
北斎は妻を二度娶り、先妻とは一男二女、後妻とは一男一女をもうけた。前述の放蕩の孫は、長女の子である。三女はお栄といい、絵師に嫁したが離縁となり、晩年の北斎と生活を共にし、応為という名で画家としても活躍した。 右図はその作品の一つである。 お栄は父に似て食事をしても食器を洗わずそのまま打ち捨ててかえりみない女だったと云う。
左図は北斎最晩年の借家の様子を弟子の二代目為一が描いたもので、老年を迎えた出戻り娘のお栄とともに住む部屋が描かれている。 お栄は火鉢の傍で煙管に身体を預けて、部屋の反対側にいる父親を眺めている。 北斎の顔は為一の尊敬の気持ちの表れであろう半分柱の陰に隠れているが、北斎は炬燵蒲団から首だけ出して、目前の紙に集中し、手を忙しく動かしている。 北斎の右側には硯と絵具の小皿が置かれている。 北斎は明らかに衰弱しているが、残りの力すべて蒲団の裾からのぞかせた手に注ぎ込んでいるように見える。
(4) 83才から2年間ほど日課に獅子、ないしは獅子舞の絵を描き始める。 長寿を願ってのこととする見解と、放蕩の孫払いとして描いたという二説があるが、孫払いのための日課だったようだ。 一日に一頭を描くことが目標だったらしく、月日が画中に記されている。 いずれも小紙に描かれた墨絵ではあるが、描いては捨てていたという作品のため、屈託のない力強い筆使いや自由自在な発想の面白さが発揮されている。描き捨てたものだが、一部が残っている。
(5) 十一代将軍家斉は絵好き将軍として有名だが、当時江戸で評判の高い文人画家谷文晁と北斎の二人を鷹狩りの帰途立ち寄った浅草伝法院に召し出した。 武士であった谷文晁が先に描いた後、北斎が将軍の前にあらわれ、落ち着いて畏れる気配もなく、まず花鳥画や山水画を披露した。 その後に、貼り継いだ紙を広げ、刷毛に藍色の絵具をつけて長く引いた。 そして、用意しておいた鶏を籠から取り出し、その足の裏に朱肉で赤い色を付けて紙の上に放ち、足跡のしるしを赤く付けさせた。 そして「紅葉で名高い龍田川の風景でございます」と申し上げ、拝礼して下がったと云うのである。 傍らに控えていた谷文晁は、はらはらと気をもんで、手に汗を握ったと言う。 嘘のような話だが、文晁自身の語る実話として残っている。

勝手創千界への

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2013年

6月

09日

勝手創千界から世界へ

この世界が持つ多くの問題への解決は待っていては果たせない

より良き社会を目指して我が「勝手自由なる提案」を創り上げていく

そして「勝手創千界」の描く世界から解決に向けての一歩を踏み出す

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2013年

1月

01日

勝手にエネルギー論を構築する

人類の行く末は「エネルギー」を如何に獲得していくかである。

日本の社会も経済も「エネルギー問題」の解決抜きには語れない。

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2012年

10月

02日

新しいエネルギー開発に向けて

「水危機」と「エネルギー危機」が目前に迫っている。この二つの「危機」だけでも「人類の生存基盤」の危機である。 一刻も早く、地球と人類にとって安全・安心な「自然エネルギー」「再生可能エネルギー」の開発が求められている。

10年、100年先の「危機管理」として、今から行動しなければ遅いことは明白だ。

「消費社会」から「循環社会」「持続可能社会」「自然共生社会」「エネルギー自立社会」へ向けての「意識改革」と「構造改革」が重要である。

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2012年

7月

08日

新しい日本改造に向けて

国の言う「国民のための判断」が本当でないことが明らかにされているいま

国民の持つ価値観として、何が大事で何が大事でないかという判断や、ものごとの優先順位づけ、ものごとの重み付けの体系の価値判断から、3.11震災を契機にした「新しい価値観」と「国民全体の幸福度」についての「提言」が、いまこそ日本に必要である。

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2012年

6月

04日

勝手に発想法を研究する

差し迫る「少子高齢化の縮小社会への突入」「産業の空洞化」「エネルギー問題」「雇用問題」「財政問題」等々・・・日本社会が抱える問題は多岐に渡るが、政治や行政や官僚に「問題解決能力」の欠如が著しい。

さらに日本の技術を支える産業界や学界の「研究開発機関」においても「劣化」が進んでいる。

今こそ「フロンティア精神」と「新しい発想」が連動して「革新的なイノベーション技術」を生み出していくことが必要だ。

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2012年

5月

01日

自然エネルギーと共に生きる

日本の自立と未来を切り開くためには、日本の国土に適合した再生可能エネルギーの社会が必要であり、最先端の日本技術を結集して「世界に誇れる日本」を創っていかなければならない。

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2012年

4月

07日

勝手創千界から「尊敬される日本」へ

まず、現状のまま進行した100年後の日本の未来を想定し、その想定社会状況から、今必要な「方策」を考えてゆく視点が必要ではないかと思っています。新しい視点が必要です。

「勝手創千界」による「勝手な発想」が「脳内停止」状態の人々に「インパクト」を与えなくてはいけません。

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2012年

3月

11日

3.11震災から海上都市計画へ

3.11震災を契機として、日本という国家のもつ様々な問題点が明らかにされ、新しい国家像が求められている。たぶんこのままでは、さらに日本の解体状況は進んでいくだろう。ラブーン海上都市計画がひとつの方向性を提示できればと思う。

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2012年

2月

19日

勝手に復興計画 in 石巻を提案

3.11震災からの新しきまちづくりとして「勝手に復興計画 in 石巻」を発進いたします。

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2011年

12月

31日

ホームページ開設

3.11震災以降、如何にすれば「津波につよいまち」が可能なのか?考えてきました。

その「ひとつの答え」を提示できればと思います。実現に向けて多くの人の意見を求めています。

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